政経―6:親方日の丸主義の構造

【政経主張―第6回】親方日の丸の組織構造
(拙著『親方日の丸』、第4章より一部抜粋)

■親方日の丸主義の構造・無責任主義の構造{拙著『同上書』第4章より}

 岡短の機能不全と構造的欠陥の因子は……まとめれば以下〈A〉~〈F〉の6つである。……図示すれば【図表―2】《下の図表参照》となる。…… 

 本質は、〈A〉親方日の丸型体質にあり、その親方日の丸型体質から次の因子が生じていた。〈B〉権益確保への固執、〈C〉形式主義{〈ア〉辻褄(つじつま)合わせ型形式主義(=自分の出世等に響く形式には機敏に反応)と〈イ〉ルーズ型形式主義(=出世無関係事には超ルーズ、ミス続出)の両形式主義からなる}、〈D〉仕事への愛情と情熱の欠如{〈ウ〉自らの職務・本質的使命への責任感の欠如(=教育、学生、学校への責任感欠如)と〈エ〉社会的使命感の欠如(=教育機関としての社会的使命感は完全欠如。教育の「キ」の字も知らないか事実上無関心)}、そして最終的に犯罪である〈E〉人権感覚の麻痺(まひ)、最後に「教育聖域論」に名を借りた税金の無駄遣い等、即(すなわ)ち、〈F〉職場(学校)の機能不全(への無関心)である。

第1節・学校機能不全の基本因子の検討
 ……
 〈A〉親方日の丸主義的本質問題
 一生懸命働いても一切報われない、しかし手抜きをしても首などにはならない。これが基本理論の土台にある。そこから生み出されるものは、(社会のために)自ら創意・工夫し、責任を持ち社会的使命を自覚し目的に向かい邁進することとは正反対の行動様式である。こうした類の機関は、岡短以外でも、公務員、あるいは政策的に過保護の学校機関もこれに属する。勿論、旧ソ連等の組織構造や、資本主義社会が行財政改革に取り組まざるを得なくなった本質原因もここにあった。そこで、この事例を中心に構造分析をして、因子ごとに〝あるべき処方〟を検討する必要がある。
 以上を前置きして教育崩壊を招いた岡短の分析に入る。私が岡短で見た範囲では親方日の丸主義の基礎理論は大きく言えば三部構造からなっていた。〈第一グループ〉・頭(学校長)と〈第二グループ〉・胴体(管理職)と〈第三グループ〉・脚(万年平組)である

 第2節・親方日の丸主義の構造

 既に述べた〈A〉~〈F〉の因子の結合形態を記せば以下の如くとなる。

 〈A〉親方日の丸主義的本質問題として、一生懸命働いても一切報(むく)われないが、手抜きをしても首などにはならない。同時に、公共団体やあるいは民間でも完全護送船団型ではその会社や団体はまず潰(つぶ)れない。超過保護の学校機関もこの範(はん)疇(ちゅう)に入る。ここから生ずるものは、〈B〉権益確保への固執と〈C〉形式主義の問題である。即(すなわ)ち、〈B〉権益確保への固執について言えば、温室にいる以上、もはや外の世界に追い出されると、ごく一部の人間を除いて使い物にならぬか、あるいは厳しい試練に耐えなければならない。そこで現在の自らの仕事を決してなくさないことのみが至(し)上(じょう)命令となる。即ち、「事業団」の縄張確保、岡短などの大学校グループの確保・維持である。これらの廃止や民営化を絶対に阻止する。今、民営化をすれば、JRと異なり確実にこの大学校グループは壊(かい)滅(めつ)する。

 〈B〉権益主義は〈C〉形式主義の〈ア〉・(自分の出世等に響く形式には機敏に反応する)辻(つじ)褄(つま)合わせ型形式主義へとつながり、その代表例が自分の怠慢及びミスから生じた事態であるにも拘(かか)わらず、事業団本部から問合せがあっては自分の立場が悪くなると辻褄合わせに走った、1989年3月の単位認定権剥(はく)奪(だつ)事件である。これにはもう一つの意味もある。卒業が楽(自動入学・自動卒業)でない限り、学生が学校教育法でいう大学などに流れ、専門学校若しくは各種学校である岡短には来なくなり、アメリカ大学の日本分校以上に学生の確保が困難となる。これでは自分らの仕事及び敷地や器などの権益がなくなるという危機感も当然ある。権益確保上はそうであるが、「事業団」の私益のために国民が税金や雇用保険料を払っているのではなく、雇用保険料金や税金が垂(た)れ流(なが)された岡短が社会のために存在しなくてはならないのである。

 よってこの逆さまの論理から、〈C〉・〈ア〉辻褄合わせ型形式主義は簡単に〈イ〉(出世無関係な事項には超ルーズでミスが続出する)ルーズ型形式主義につながる。即ちミスをしたところで、競争相手がいる訳ではなく、そのため身内でのかばい合い所か、ミス等は国会やマスコミで取り上げられぬ限り問題外という構造となり、処罰等はされることはない。当然、事務員間での厳しい叱(しっ)咤(た)なども見たことがない。第一、いつ自分自身が同様なミスをするか分からないこともあり、身内には優しいのである。

 これらが、〈D〉無責任・使命感欠如体質、即ち、〈D〉〈ウ〉・(学校機関の教育機能に対する)責任感の欠如と〈D〉〈エ〉(税・雇用保険を投入された学校の義務である)社会的使命感欠如(教育の「キ」の字も知らないか事実上無関心)へと結び付いていく。即ち、「社会のため」とか「人のため」などは一切考えない。この岡短で「学校を良くする」、「学生への教育をどうしようか」、「学生にこうなってもらいたい」と、事務員が努力をしているのを15年間見たことがない。学校長ですら、高級な単なる飾り物でしかなかった。税金と雇用保険料の無駄遣い所ではない。
 岡短全体としては主として前例に従い仕事をこなすだけである。否、それすらせず、引継ぎミスから混乱が蔓(まん)延(えん)していた。さらに、適当に思いついたことを、締結していた労働契約の確認もせず、労基法違反とか不法行為に該当するかどうかの吟味をすることもなく、非常勤講師などに無報酬で押し付ける犯罪行為もまかり通っていた。また、先例が労基法違反であれば、そういうことだけはきっちり受け継いでいた。

 これらは、無責任体質の定着を意味していた。学校の祥事(ふしょうじ)の最高責任は、本来は、学校長が負わねばならない。だが既(すで)に述べた如く〝お飾(かざ)り〟として認知されているため、責任はないと自他共に認められている。MK課長の言葉を借りれば「校長と副校長は飾りであり、実権は課長である僕が持っているんだよ」から、副校長も然(しか)りである。だが、このMK課長など第二グループは約3年間隔で人事異動である。よって、「私は知らないよ。前任課長のせいでしょ」か、「まだ赴任してきたばかりだから仕方ないだろう」と無責任を自己弁護し、他も暗黙で了承する。では、第三グループは長くいるため、彼らが第一や第二グループに進言すべきである。
 第三グループは言うだろう。「何故(なぜ)、こんなに冷遇されているのに、私らが責任を持たねばならないのか」。「私らは平だよ」、「責任は上司であろう」と。では機構の本部か。本部は言うであろう。本部には連絡がなく、現場のことは現場に任せてある、と。まして「理事長」はお飾りではなく大(おお)お飾りなのだ、と。時にはミスの起こりうることは、故意にバイトにやらせておき、バイトだから仕方がないし責任は問えないという狡(こう)猾(かつ)な論理が岡短では実際に貫かれていた(1997年度5月の賃金遅延他)。こうして責任者不在体質が構築される。 

 2007年7月現在、社保庁の国民年金5千万件が不明、さらに1470万件の不明も発覚した。誰の責任か。「大臣か」と言えば、大臣をだしている自民党は、「民主党の菅直人氏が厚生大臣のときの不祥事だろ」と。調べ直すと小泉前総理が厚生大臣であったときの原因かもしれないとなり、慌(あわ)てて発言を取り消した。公明党の坂口元厚生大臣も安(あん)堵(ど)したであろう。続けて自民党は「組合のせいだ」、「士気のない平の職員のせいだ」と平を責める真(ま)似(ね)をし、国民に「もう責任者捜しはやめた方が良い」という感情を持たせようとしていた。「つまり大事件であるが責任者はいない」、と。社保庁及びその監督機関の政府自らのミスの後始末で、確認作業のみで朝日新聞によれば約1千億円以上費用がいると記されていた。だが、税金で1千億円浪費となっても、誰の責任でもないそうである。
 因(ちな)みに社保庁でコンピューター入力の際に、膨大な量でミスが生じるため、打ち込み人とは別にチェックする人を配置していない時点でもうミスは確実に予測されていた(*3)が、誰の責任でもないそうである。社保庁長官や幹部は「前の長官のせいだろう」、昔の長官などは「私は辞めたから、もう知~らない」、と。さらに、やばいときはバイトを使用しておけば、責任逃れはなお簡単となるし、実際に行っていた。まさに岡短で見た〝無責任構築構造〟である。だから、私は未来を見た男なのである。
(*3)安部総理は2007年初頭から年金問題を知っていた、10年前から宙に浮いた年金は確認されていた、60年代から発覚していた……と、次々に新事実が明らかにされ、「朝日新聞」2007年7月21日によれば厚生年金時代も含めると58年に行政管理庁(現・総務省行政評価局)が指摘していたとのことである。

 これらから、最終的に生み出されるものは〈E〉人権感覚の麻痺(まひ)である。その最たるものが労基法違反である。先例に労基法違反が蔓(まん)延(えん)しており、それらだけはきっちり受け継がれ拡大・再生産されていった。労基法違反は、一言で言えば人権の侵害、即ち「人間が人間として生きる条件が不当に奪われることであり」、イェーリングの言葉を借りれば「これなくしては家畜となる」(*4)と言われる物が奪われることである。よって、労基法違反の本質は、一部のグループの人間は人間であるが、他のグループの人間(非常勤講師等)は人間ではなく家畜か奴隷とみる発想である。特に非常勤講師は、機械の部品で、事務員の思い通りになるだけでよいという発想がでた所に私の悲劇があった。そしてその行き着く果てが、〈F〉職場(学校)の機能不全(への無関心)と「教育聖域論」に名を借りた権益確保のための雇用保険料と税金のどぶ捨て行為である。

 この上記構造から生み出された職場の機能不全の事例を、以下3節と4節で二例紹介する。そして、日本社会全体が私の見た未来へまっしぐらに進んでいる。
  (*4)RUDOLPH VON JHERING,『DER KAMPF UMS RECHT』,(VITTORIO KLOSTERMANN), 1872、参照。翻訳本としては以下二冊がある。イェーリング(小林孝輔・広沢民生訳)、『権利のための闘争』、(日本評論社)、1978年。イェーリング(村上淳一訳)、『権利のための闘争』、(岩波文庫)、1982年。英語版への翻訳としては、RUDOLPH VON JHERING (Translated by JOHN J. LALOR),『THE STRUGGLE FOR LAW』,(HYPERION PRESS, INC.)


■無責任主義の防御システムと労基法違反の構造{『同上書』第5章より}
   …………
 「機構」、「社保庁」などは、既に紹介したミスやシステム不全を露呈し続けている。されどしたたかな物である。何故ならば多方面にわたり、ミスに対しての防御網を確立していた。要するに、責任が誰にあるかを分からないようにする無責任システムの確立である。第一グループ(学校長など)は飾りで責任なし、第二グループ(官僚でいうキャリア組該当職員・管理職)は3年おきに異動のため、ミスが発覚した時には、別の職場か退職後となり過去の事は私にはもう無関係となる。さらに現課長は前課長のしたことで責任なしだそうである。3年間隔異動はそのための転勤かと疑わざるをえない。第三グループ(官僚でいうノン・キャリア組該当職員)は平か係長止まりが大半であり、第三グループの責任追及は可哀想と世間の同情を買うという見事な無責任体制の構築である。この構造は官僚組織・特殊法人・独立行政法人全体に蔓延し、国の税や保険を溝に捨てても安心構造となっていた。誰の責任か不明にしてしまう構造が構築されているのが、日本の官僚制度の特徴である。当然、偶然ではなく、故意に計画的に創造された体系である。
 再度、単位認定権剥奪問題の引き金になった再試問題強要の箇所を読んで貰いたい。特に、岡短の場合には故意にか、若しくは結果として新型詐欺となっており、10年以上に亘る私の人生を奪った。この新型詐欺に一定のパターンがあったため、気になる対比事例を以下記す。

 Ⅰ・O氏「テキスト作成すれば先生にも印税が入り、学校も助かり、生徒も助かるので、オリジナルテキストを作成されたら……」→F氏「市販のにして下さい」=では止めようか、念のためFの上司のH課長に聞く「是非自分でお作り下さい」→H課長が去りF氏が再度「市販のにしたら」→私「職員の見解がバラバラなため、私の専任確約確認も含めて事業団本部で聞いてくる」→MK課長「では製本にしたらいいんだろう」。そして簡易製本したが印税どころか原稿料もでず。恰も、「君が作りたいといったから作らせた。よって原稿料・賃金・報酬は一切無料」と言わんばかりである。因みに、テキスト――特に『旅に心を求めて』――の相当部分は岡短宣伝用自主教材であった。教材の最後の仕上げに必要な材料(岡短の学校イラスト)は、ある日突然、事務所の入り口に黙っておいてあったというおまけ付きである。

 Ⅱ・83年「是非、専任に」で招聘された→これにより膨大な貢ぎ労働と私財提供→97年MK課長登場と私との確執問題を故意に作らされた後で「専任そんなものなれるわけないだろう」となる。因みに、この言動は97年度であり、岡短が間もなく4年生へと事実上の拡大前であり、もし私が98年度以降もいれば私を専任にせねば、誰が判断しても詐欺罪が確定していた。97年度学生R、SY、MK課長はその前に私を追い出すための刺客の如しである。

 要するに、「君、AをしてくれたらBをあげよう」→長期Aをし続け、適当な時に課長などが交替、新課長が「君、勝手にAをしたら駄目ではないか」と怒り、その怒りに任せてBは無しとする。無料且つ貢ぎで膨大な労働を強いる手口である。さらにこうした事例がまだあるため、計画的ならば労基法違反よりも刑事犯罪・詐欺罪に該当する。この手を使われると私の労賃は0円のみか、交通費・宿代まで幾らでも自腹で仕事をさせられる。担当者・上司が交代することを利用しての悪質な手口である。労基法違反のみならず明白な詐欺である。分かりやすく幾つか例えを記す。

 A「君、優れた会社宣伝用パンフを作ってくれ。そうすれば君にも膨大な原稿料をだすよ」→Aが異動しBが上司「君、勝手にパンフをつくったら駄目じゃないか」と怒鳴った後で「まぁ特別に許可してやるので残業でしてくれ」。当然賃金がでると思えば作成後に「君がしたがったのだから残業代も賃金も原稿料もださないよ」。
 A「君は優秀なので我が社がスカウトする。ただ数年はパートだよ。だが、サービス労働、自宅労働で必死にやってくれ。そうすれば社長も納得するし絶対に正社員だよ」→膨大な貢ぎ労働→Aの替わりにB登場「正社員、そんなこと知らないよ。第一、君は、もう首だよ」。
 部長A「君、会社の仕事である自動車に専念し、仕事後にチームを組み別の自動車用電池を開発してくれ。そうすれば君を僕の代わりにここの工場長にするよ」→膨大な貢ぎ労働と無料労働。しかし後一歩で完成。当然研究者ならば最後まで仕上げねば落ち着かなくなる→部長AからBへ交代「君、勝手に自腹とはいえ自動車用電池を会社の設備をつかってしては駄目ではないか。今度やると首だよ。だが君がどうしてもしたいようだから、今度は勤務時間は車、残業も車、その後で自動車用電池をつくりたまえ」→そしてほぼ電池が完成するとBが直前にCと交代し、C「君はリストラで首だよ。自動車用電池は、君がしたがっていたから、つくらせてやったのだよ感謝しろよ。AやBの言ったことはしらないよ。僕はCだよ」。だが特許類は会社の規定で会社のものとなる。スレーブ中村氏なら電池ではなくLEDであったが、一定は理解できるであろう。
 これは一種の詐欺であり、これが現実になり蔓延する危険性がある。序章で記したように私は腐った組織に15年閉じこめられ「未来を見た男である」。そして岡短のケースは私でも信じ難いが、悪魔で理論面に限定して言えば、もはや詐欺と断定しても問題はない。
 引継ミスという口実を利用したり、前任者の責任で私は知らぬ型を利用したりすれば、詐欺、労基法違反、組織の機能不全は即座に簡単に蔓延する。未来を見た男(私)がこの警告を99年から政府その他へ送り続け、一般向けにも記している07年6月頃から社保庁問題が類似問題で世間を賑わせている。因みに、私は、10年以上前から現厚生労働省の二大癌として、社保庁(年金)と雇用促進事業団(雇用保険)を批判し続けてきたが、喜んでいいのか悪いのか、その仮説がもう証明の必要性を超え両者で実証された。警告文書を一般国民向けにも急いで出さねばならない。現在、正規労働とパート労働を二分化する新奴隷制度が出現しつつあるため尚更である。原稿を記すのを急がねばならぬ。

 {以上、拙著『親方日の丸』(未公刊)、「第5章・親方日の丸型労基法違反と生きる屍、第5節・親方日の丸型行動様式の防御システム」より引用。} 


 

【2015年5月10日解説】

浜田隆政、「親方日の丸・第一部親方日の丸の組織構造」(安らぎ文庫、Kindle版)2015年8月10日発売予定より抜粋。

 

同上書関連資料

1999年『特殊法人への疑問と教育聖域論への問題提起』→政府機関に書留送付

 上記を全面改定して、『親方日の丸』として2007年10月1日作成。
『同上書』2008年12月5日微修正

 2015年5月電子書籍用に改訂して、『親方日の丸―第一部・親方日の丸の組織構造』(2015年8月10日発売)、『親方日の丸―第二部親方日の丸と日本経済』(2015年8月末頃発売予定)として発売予定である。第一部の見本・購入方法は安らぎ文庫HPに掲載している。下記をクリックしていただければ、該当箇所へリンクします