《提言―8の続き:グランドセオリー》
電力などは、日本は三十年以内に自然エネルギー百パーセントを目指すべきである。日本の家庭で太陽パネル発電数の普及(ふきゅう)率がTV台数以上になるように手を打たなければならない。当然、石油よりもコストが安く電力が起こせるように、太陽パネル発電は早急に技術開発をしなければならない。必要は発明の母である。理論上は可能である。石油は再び、飲めない上に、時には燃えて危険な厄介(やっかい)な液体へと後(あと)戻(もど)りしなければならない。
万能細胞が可能ならば万能資源も可能なはずでもある。万能資源が鉄等に取って代わる道を開かねばならない。但(ただ)し、これは自然エネルギーよりは遙(はる)か先のこととなるであろう。
農業も同一である。アメリカ等が資本集約型農業を目指し、タイなどが安価な労働集約型農業であるとき、日本は知識集約型農業を目指すべきである。例えば、医食同源(どうげん)どころか医食同一志向型農業を目指すべきである。日本の穀物を食べれば外国のそれ以上に骨粗鬆(こつそしょう)症になる確率が大きく減るとか、癌(がん)になる確率が何パーセント減るとか、簡単にできるのは同一分量を食べてもダイエット効果が五十パーセント高いとか。これしか日本農業の生き残る道はない。そのためには、生物学、農学、化学、医学などが共同で研究開発をしなければならない。
漁業とて同様である。いつまで捕(と)る漁業をしているのかとなる。古代人が笑うであろう。もはや沿岸などで育てる・作る漁業へと転身をする時代にとっくの昔に突入している。
理系諸君は大学時代に就職活動だけに没頭するのではなく、これらを実用化するための、研究の土台を大学時代に身につけなければならない。文系諸君は全体として人間が人間として生きられる社会の見取図を作り、そうした社会をつくるための研究の土台を大学時代に身につけねばならない。その能力は企業に就職しても、分析能力として活(い)かされるであろう。
インタネット、双方向けTVなどの情報通信網を活(い)かし、大都市への人口集中を逆転しなければならない。言うまでもなく、地代は田舎(いなか)の方(ほう)が安い。ならば商売の大半が今後通販中心になることを考えれば、田舎の方が在庫を置く場所にしても、店を構(かま)えるにしても地代は安いだけに好都合となる。車とて近い将来は通販で組み立て方式で販売される日も来るであろう。乗り物は自動操縦となり、かつエネルギーは電気となり、車が全国の電器店などでも販売されると同時に、軽量化され、かつ幾(いく)つかの主要コンポーネントを取り寄せ、自宅で組立ても可能となれば通販でも売れるであろう。そこまで行かなくても、電気自動車で軽量化を図(はか)れば通販でも販売される時代は来るであろう。そのとき、店舗は地代の高い都市部よりも地代の安い田舎が良いとなる。斯(か)くして、人口の大都市集中化と逆の時代に入る土壌(どじょう)を生み出す。
同時に情報通信網を生かし、医療などは、双方向けTV(TVに血圧計などは通常ついている)方式となり、軽度の患者の場合にはTVで医師の問診や視診を受け、薬などは宅配業者経由で配達されなければならない。この場合、遠方の島でも、医師による問診・視診などは常時簡単に対応可能となる。やや重い患者の場合には病気の本人が自家用車で病院に行けばよい。何故(なぜ)ならば、車は自動操縦のため、車の後(うし)ろに寝ていれば勝手に病院へ行けるからである。同時にこのとき、新幹線と同様に交通事故死者はゼロ人となる。それどころか交通事故すらゼロとなる。医療費などは大きく減少することとなる。
これらは遠い未来ではなく、大半を三十年以内に、遅くとも五十年以内に実現すべきと考えている。社会の発展は、創意・工夫する労働者がどのくらいいるか、どのくらいの熱意でそれをするか、に掛(か)かっている。
後は、過剰生産を防ぐための努力のみである。もはやそれらは神の見えざる手によってでもなく、政府の計画経済によってでもなく、ただ情報技術を駆使(くし)し、現時点での各分野での生産量や今後参入予定者量の情報を提供し、それを道標(みちしるべ)とし、各人が行動することで交通整理がなされなければならない。
ITをフル活用し、各種信号を作(つく)らねばならない。仕事のミスマッチもこの信号(情報収集と公開)によりほとんど姿を消すであろう。更(さら)に、機械化の進展により家事・介護などから人間を解放し、女性の社会進出を促し、男女平等社会を実現しなければならない。労働が人間をつくることを考えれば尚更(なおさら)そうである。こうして、障害者・女性・高齢者の社会進出により、国家により養われる人は減少し、逆に養う側に回る人は高齢化社会においてすら、今よりは増加するであろう。分子が分母に回るからである。同時に、このときに初めて真の男女平等とその上部に位置する真の恋愛と真の結婚などが実現できるであろう。そのとき初めて職業としての風俗は死滅への道へと突き進むであろう。
今求められている産業革命は、過去のそれが人間疎外(そがい)をもたらしたのとは逆に、人間が人間として生きる条件と密接に結びつくとしてすら、各企業及び各人は死闘である。死闘という形で切磋琢磨(せっさたくま)することが、現代という時代では――遠い将来は別であるが――求められている。死闘をするためにはルールが不可欠である。しかも国際的なルールがいる。
変動相場制はもはや桎梏(しっこく)となっている。膨大(ぼうだい)な情報を処理できるコンピュータを駆使し、様々な指標を基にある方程式を使用し、適正な為替(かわせ)相場をはじきださなければならない。この相場は約三年間隔で変化させればよい。そうすればどの国にとっても不利はない。今の変動相場制は、ヘッジファンドなどが絡(から)んだため、実体経済などを表さない、(公営所か国際)ギャンブル状態になっている。ここから脱却するためにはIMFとIBRDを舞台とした第二次ブレトンウッズ協定が求められている。
先のブレトンウッズ協定は、金一オンス=三十五ドルを軸とした金ドル為替本位制度であった。これからの固定相場制はそれに変わり、IT社会に相応(ふさわ)しい形で情報を駆使し、適正な方程式による固定相場制としなければならない。世界統一貨幣ができるまでは。
同様に、こうした指数から世界最低賃金に関する条約が望まれている。労働条件の基準も同様である。更(さら)に男女平等、障害者の社会的進出に関しての最低守らなければならない世界基準も罰則付きの条約で完備しなければならない。世界統一国家ができる前段階の世界統一経済体ができるまでは。
これらの土俵=ルールの世界的基準を条約で完備した上で、企業及び個人は死闘を演じなければならない。企業などが死闘を演(えん)じるときは、その戦いが熾烈(しれつ)ならば熾烈なほど、ルールの完備が不可欠である。
これらを実現させたとき、日本の産業空洞化(くうどうか)は阻止できるであろう。紛争も大きく減るであろう。但(ただ)し、企業及び各労働者は自転車と同様で漕(こ)ぐのを止めれば倒れるため、懸命(けんめい)にペタルを漕ぎ続けねばならない。生きるということはしんどいことである。されど、プロ野球やプロサッカーの選手は、常に死闘であり、漕ぎ続けている。彼らはしんどいであろうが、そこには楽しみもあろう。夢もあろう。企業や労働者も同様である。そして、彼らが漕ぐのを止(や)めようと思ったときが定年である。 依(よ)って定年制は廃止し、各人が老いや病やその他の理由から漕ぐのを止めようと思うまで、働き続けることが望ましい。但(ただ)し、労働力商品としての価値がなければ、企業は労働者が何歳であろうとも解雇することは当然である。その代わりに、採用に際しての年齢制限を罰則付きで廃止し、履歴(りれき)書にも年齢を書かすことは法律で禁じ、年齢が文字通り一切(いっさい)不利にならない条件で敗者復活戦ができるよう法整備されなければならない。
再度言えば、日本は、否(いな)、世界は新型産業革命を必要としている。十八世紀に英国で始まった産業革命が結果として人間疎外(そがい)を伴ったのに対して、今求められている産業革命は人間が人間として生きる条件に繋(つな)がる物となる可能性が高い。何故(なぜ)ならば、高齢化社会、少子化問題などを前提とした産業革命だからである。
その軸となるものは、エネルギー革命{無尽蔵(むじんぞう)かつ地球に害のない自然エネルギー中心}、車等の乗り物(自動操縦前提の乗り物)、IT革命の更なる新段階、人間全員がなる高齢者が人間として生きる上で必要不可欠な商品(介護も含むが、総論として、これらは障害者や健常者にも有益な商品となるであろう)や薬も含む医療改革、一次産業代替(だいたいたい)産業{捕るから育てる漁業と同時に医療・薬学・生物学・化学等々と結びついた医食同源(どうげん)型農業}、危険労働の大半を補うロボット等々の総合からなるものである。
これらなくして、日本のみか世界の未来はない。その必要性から、新型産業革命は必ず起きるし、起こさなければならない。
同時に、過去と異なり、自然科学が人間社会から遊離(ゆうり)したり、対立したりしないようなシステムの開発も望まれている。更(さら)に、人間の絆(きずな)を構築する学問も求められている。戦争などという不条理な世界がある限り、将来の歴史学は二〇一一年も古代時代に分類するであろう。戦争を世界から完璧(かんぺき)になくす研究や実践がないならば、国際政治学・国際関係論などは無価値な学問であり廃止した方が良い。
私の記したグランドセオリーは全人類で目指すものであるが、その舵(かじ)取りは政治家がすべき事項である。その舵取り時には、供給サイド経済学に傾倒(けいとう)する政治家も現(あらわ)れるであろう。しかし、そのとき、真(しん)に国民や日本・世界のことを考えてそうした政策に辿(たど)りついたのか、贈(ぞう)賄(ぞうわい)・収賄(しゅうわい)からそうした主張をしているのか判断できぬときがある。そこで企業献金などは全面禁止すべきである。天下(あまくだ)りも然(しか)りである。同時に税の少しでも絡(から)んだものは完全ガラスバリとし、インタネットで常時閲覧(えつらん)できるようにすべきである。これは、一億総オンブズマン制度を意味するものである。また、政治家が国民から遊離(ゆうり)しないためにも、公職選挙法は改正し、インタネットは選挙中とか選挙前に拘(かか)わらず二十四時間×三百六十五日に亘(わた)り自由に発信できるものとすべきである。インタネットほど金のかからない選挙はない。しかも今後インタネットの主役はテレビ(少なくともパソコンとテレビの融合したデバイス)となると想像され、老人にとっても垣(かき)根(ね)は低くなる。
これらの相当部分が実現したとき、太陽エネルギーを中心とした自然エネルギー時代となり、石油を巡る争いも姿を消すであろう。同時に万能細胞ならず、人工資源が天然資源にとって代わり始め、資源を巡る争いも相当減るであろう。こうして、領土問題も影を相当潜(ひそ)める。
しかし、ナショナリズムにより起こる紛争はまだ暫(しばら)く続くかもしれない。それらは力で解決するものではなく、人類の英知で解決するものである。その英知を身につけなければならないのが文系諸君である。その諸君が大学に行き、一年と二年時は麻雀(まーじゃん)とコンパ、三年からは就職活動のみでは、高等教育に税金を投入する意味はない。国内外での争いを防ぐための道具を発明していかなければならない。過去には国際連盟とか、国際連合とか、国際司法裁判所とか、国内では議院内閣制とか三権分立とか、古い発明はあった。だが現代が求めている課題に応(こた)える新しい制度の発明が求められている。北方領土問題などは、本来は、そうした制度により解決されるべき問題でしかない。
なお、日本の憲法九条は世界の先端を行く発想であり、自衛隊は国土保全隊へと改組し、世界の災害・飢饉(ききん)などの場所へ真っ先に派遣(はけん)し、世界に恩を売ることにより、日本の安全を確保する。そのためには隊員は一人も減らさない。勿論(もちろん)、日本の国内でも同様とする。更(さら)に、隊員の相当数に救急救命活動のノウハウを習わせ、資格をとらせ、国内での災害活動のみならず、救急車を増やしても間に合わないときや近くの医療機関が一杯のときには、ヘリコプターで別の都市の病院に転送する業務等に常時従事させる。
非武装中立という目に見えない呪文(じゅもん)ではなく、目に見える命懸(いのちが)けの人命救助を世界各地で頻繁(ひんぱん)に行い、日本は普通の国ではなく戦争を放棄し、その上で自国を守るために世界各地で人命救助に命懸けで終始従事していることを世界に認知させなければならない。そうすれば、イラク派兵などでも、アメリカも日本には要請してこないであろう。例えばイラク戦争の頃、日本の部隊がアフリカで飢饉(ききん)救済活動を必死でやっていれば、そしてそれが世界中に報道されていたならば。日本は普通の国家ではなく、憲法九条を持つ特別な国家である。そしてそれは実は世界の未来なのだ、と。つまり、自由権、平等権、請願権などの後で社会権が登場したのと同様に、その後で憲法九条型平和生存権なる人権を世界に先駆(さきが)けて日本が示した、と世界は悟(さと)るであろう。
軍事が必要なときもあり、私が言うことは奇麗事(きれいごと)と言う台詞(せりふ)は、太平洋戦争などで何度も言われた言葉でしかない。どうしても治安のため軍隊が必要というならば、国際連合の下に常設国連軍をおき、その部隊は原則として派遣国も含めてどの国にも属さないとすべきである。但(ただ)し、日本は憲法九条の関係でそれにも隊員は派遣できない。だから、世界の人命救助のため血と汗を流すのである。目に見えすぎる国際貢献は常時していると胸をはって言えるように。
人間が人間として生きる条件を満たしだしたとき、この世の争いは消えるであろう。だが、今暫(しばら)く、人類はルールの上で死闘をしなければならない。その死闘は武器を使ってではなく、人間が人間として生きる上での必要物を作り、売る競争として。そして、私がこの書物で強調したのは、二十一世紀に相応(ふさわ)しい国際ルール確立の必要性である。
缶詰(かnづめ)にされた私が、今、TVに向かい叫ぶこと。それは人間が人間として生きられる外的条件の実現である。そして、その叫びのみが、監禁下の私にとって人間が人間として生きる内的条件は如何(いか)なる下(もと)でも可能であることを示すことでもある。この両者なくして、私の生存はない。
ただ外的条件のみ整備され、長期に亘(わた)り生かされ・生き続けても、それは死を待つ家で死を待つ時間でしかない。ただ内的条件のみを追い求めても、外的条件がなければ、他人に遠慮(えんりょ)し社会の重荷という十字架を背負わされ、時には生きるより苦しい日々となる。私の言っていることを理解するには、今日(こんにち)の年三万人を超える日本の自殺者数に思いを馳(は)せればよい。だから、生きる上では内的条件と外的条件は共に不可欠である。
如何(いか)なる形でも、人間の尊厳(そんげん)に相応(ふさわ)しい形で介護が実現されること。同時に如何なる状況でも人間として生きる上での目標を持つことができる社会。それを求めて、私は長い監禁下の日々をTV・パソコン等に向かい叫び続けている。
これが私のグランドセオリーである。二〇一一年三月一日記述。
提言―9・新産業革命と新たな時代を
- 拙著『日本のフィクサーME・下巻』第6章第2節より引用。
- 【解説・2015年11月15日】
私は、大昔から、政治経済分析や幾つもの提言や行ってきた。1980年代には駿台予備学校政治経済の授業で、今のままの状態ならば、いずれ銀行にお金を預けても利子のつかない時代がくるとか、国民年金は詐欺年金などと解説をした。前者については、当時、公定歩合は約6%時代のため、多くの生徒が私に冷たい視線をおくっていた。後者については何のことか分からないようであった。月日が流れ、銀行にお金を預けてもほとんど利子のつかない時代が長期続いている。逆に、今、銀行にお金を預けると6%の利子がつく時代がくると言えば、クレージー扱いされるであろう。また、後者の年金問題は、私が国民年金批判をしてから約二十年以上たち火を噴いた。この問題にも、私が関与していた可能性があるため、それらは拙著『親方日の丸』にて公開している。
駿台辞職後も、多くの提言をしてきた。化石燃料・原子力から自然エネルギー中心へ、日本経済はデフレ状況ではなくスタグフレーションの奇形構造であること、特殊法人問題……等等。昔は、私の提言は社会から完全無視されていた。微風も吹かなかった。今は、かなり、私の提言が注目され・実現され始めた。車の自動操縦等等……、と。
そこで、今回、2011年に公表したグランドセオリーなるものを、私のHPで公表することにした。これらの全体像は拙著『日本のフィクサーME』に収録している。
なお、私は今国際紛争をなくすため、世界連邦、若しくはその前段階としての新国際秩序なるものを提唱して、可能な限り主要国に行脚を繰り返している。