提言―8・真の観光資源に関する提言

二・世界の安寧(あんねい)を願う男――Grand Theory(『夢』)

  ――★★★グランドセオリー★★★――
 観光立国、観光立県、観光立市町村と言うならば福祉を充実させろ、である。チボリ公園を見るがよい。大赤字で潰(つぶ)れた。観光と馬鹿の一つ覚えで村興(おこ)しを図り、ほぼ全ての施設が逆に大赤字を出した。小さい日本で、どこの村も町も市も県もが観光で村興しと言えば、当然供給過剰で赤字の道のみである。

 私は二〇〇〇年頃に美作町議会議員に提言をしたことがある。我が町で観光名物を作ろう。テーマパークではない。福祉である。バリアフリーの見本の町を作ろう。歩行者専用道路を歩く障害者と高齢者の比率が日本一多い町を作ろう。車椅子(いす)が至(いた)る所を走り回っている町を作ろう、と。そうすれば、日本に数え切れないほどあるテーマパークと異なり、競争相手はいないため、もの凄(すご)い観光資源となるであろう。多くの県や、それどころか海外からも視察のみか、観光目的で人は来る。

 シンガポールが法律でゴミの投げ捨てを禁じ、一時(いっとき)ゴミのない国と謳(うた)った。それに釣(つ)られて、私が海外旅行で最初に訪れた国がシンガポールであった。ゴミがない国、それだけでも観光資源となる。奈良の大仏、金閣寺だけが観光資源ではない。日本一、車椅子が走り回り、日本一障害者や高齢者を見かける町、そのためのバリアフリーと環境づくりをしようと呼び掛けた。温泉のある我が町で目玉の観光資源として、世界に例を見ないほどのバリアフリーを実現しよう、と。

 実際に文書でも、ある市議会議員にその原稿の一部を郵送した。だが、残念ながら歩行者専用道路に一番違法駐車の多い町となった。一時(いっとき)は懸命(けんめい)にドンキホーテの如(ごと)く、それらへの注意や時には警察へ届け、やめさせようとしたが無理であった。

 もし、私の夢が叶(かな)ったならばどうなったか。世界で例を見ないほどのバリアフリーの市となり、障害者・高齢者が安心して道を平気で歩ける町となっていた。そして、それはもの凄(すご)い観光資源である。そうした町か村があれば、私などは飛んで見学に行く。同様の人も多いであろう。勿論(もちろん)、競争社会である。真似(まね)をし、競争相手が現(あらわ)れるだろう。そうすれば、日本中がバリアフリーの先進地となり、日本全体の観光資源として、それが目玉となる。だが国際競争もある。世界の主要国が真似をしだしたならば、どうなるか。日本も更に努力すればよい。同時に世界中がバリアフリー化されるだけである。そのとき、人はこの地(地球)を楽園と呼ぶであろう。

 バリアフリー化、障害者・高齢者に〝優しい〟町や国。否(いな)、〝優しい〟とは差別発言に近い。障害者・高齢者を含め、人間が人間として生きる条件を完備する町や国になろう、である。

 そうなればあらゆる地で争いは大きく減るであろう。そしてこれらの施策に金がかかるのみではなく、これらの施策が金を生み出すことが分かったとき、世界の競争は人間が人間として生きる条件を満たすことの争いとなるであろう。
 企業とて同様となる。高齢者などの下(しも)の世話{排泄(はいせつ)物の処理}などは、本来、ロボットか便座が自動ですべきものである。丁度(ちょうど)飯炊(めした)きや洗濯が機械化され、自動炊飯器(すいはんき)や洗濯機が登場し商売となったように。斯(か)くして高齢化社会は企業のビジネスチャンスとなる。

 人間が人間として生きる条件を満たすこと、それは今後は商売となり、観光資源となりうる。福祉は金がかかると厚生労働省は宣伝しているが、環境省は逆に宣伝すればよい。福祉はやり方次第(しだい)では金を生み出す物である、と。

 高齢者が生(い)き甲斐(がい)を持ち働ける企業、それ自体が観光資源となり、企業のCMとなる。逆転の発想ではなく、方法次第では、理論的に事実である。

 
 光化学スモッグ、花粉症を地球から根絶しなければならない。同時に化石燃料と〝おさらば〟を世界一早くしなければならない。それらは全て有効需要を生み出す。高速道路をつくるのも公共事業ならば、これらの事業も立派な公共事業である。当然、有効需要に結びつく。そしてこれらの実現は人間が人間として生きる条件を満たすのみならず、新型産業革命を引き起こす導火線となる。

 日本経済の立ち直り、あるいは世界経済の全体的な飛躍的前進への引き金となるものである。新型産業革命は、イギリスで起こった産業革命が人間疎外(そがい)を生み出したのとは逆に、人間が人間として生きる条件と密接に結び付き起こさなければならない。
 今が、そのときである。

 車は早急に自動操縦としよう。宇宙予算が十分ない、日本の「はやぶさ」が遙(はる)か彼方(かなた)の宇宙を自動操縦で運転されている現在、狭い日本を走る車が何故(なぜ)自動操縦でないのか不思議で仕方がない。これからの社会は、高齢者ほど車を運転する社会でなければならない。若者などは、健康のため、自転車や徒歩中心となるべきである。

 官公庁の交通費などは、バスや電車等の公共の乗り物で来れば実費の一万円、自家用車で来れば五千円、自転車で来れば一万三千円、歩いてくれば一万五千円とする等々(などなど)と。二十一世紀は、人の欲望に併せて車社会を築き、それに併せて道路を作りまくるのではなく、既存(きそん)の道路に合わせて交通量を減らすべきである。それが世界の潮流である。では車会社はどうなるか。少なくとも車会社は、高齢者や重度障害者が乗れる車を作るべきである。車が本当に必要なのは足腰が弱った人などである。依(よ)って早急に完全自動操縦の車をつくれと言いたい。勿論(もちろん)、レジャーで車を乗るのは自由である。当然である。それでも収益がでなければ、健康に良い自転車型乗り物などを車会社も含めてつくればよい。

 土建業者は道をつくれず困るも嘘(うそ)となる。日本は自転車専用道路及び歩行者専用道路が余りにも不足している。依(よ)ってそうした道をつくればよい。また、建設国債で、道路にセンサーや誘導無線等々を取り付け、そのセンサーなどを頼りに自動操縦型にすれば尚更(なおさら)自動操縦は簡単である。更(さら)に、五十年以降には道がなくても動く乗り物が開発されていなければならない。車という乗り物時代に終止符を打たねばならない。万能細胞を完璧(かんぺき)に完成させるよりは早くできるはずである。少なくとも自動操縦の車は。
 夢ではなく、数十年以内に実現しなければならない。

  • 上記は、拙著『日本のフィクサーME・下巻』第6章第2節から引用したものである。
  •  上記文章の骨子は1999年代の終わりからもっていた。それを明文化したのが2010年頃である。幾つかの出版社に原稿を送付したのも2011年である。車の自動操縦の方は日本が世界の先駆的役割を果たす気配となりだした。

     だが、観光の方は頭を覆いたくなる状況にある。日本への観光客はここ数年飛躍的に伸びた。しかし、私の提唱した姿とは異なる。私などは、よく、こんな日本に外国人が来るものだと呆(あき)れる次第(しだい)である。
     もし、私に自由と金があれば海外に行くであろう。
     私は、再度、日本の観光資源として上記主張を今回も繰り返すことにする。なお、観光問題のみならず、日本全体・世界全体への提言をこの文書の後に掲載しているため、それも次回公開することにした。「新産業革命と新たな時代を」の箇所である。

     ※追記。私は数年前から、戦争よりも、平和が金になる道の経済理論に関心を持っている。その方策を理論化し、心ある企業に実践してもらいたいと考えている。世界平和を構築するためには様々な方策がなされなければならない。その中で重要な一つとして、平和が戦争以上に、企業にとって金になることを示すことは重要な課題の一つである。(2015年11月9日記述)