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 「教材『旅に心を求めて』水俣再訪の旅の帰路、天草で宿を取る。宿・住吉にて深夜、宿泊帳に海への憧れを記す。

 満身創痍(そうい)の時、気づくといつも海にいた。海は私にとっての心のオアシス、心の湯治場である。

 駿台予備学校を辞した、まさに、その夜の鳥取の海。深夜零時過ぎの、冬の鳥取の海には、星が一面に降り注(そそ)いでいた。海はいつ見ても飽きない

 夜明け前の海には寂しさがあり、日の出の海には感動があり、朝の海は青く美しく、昼下がりの海は逆光で光り、夕日の海は日本の心・わびしさがあり、深夜の海は人もなく星が降り注ぐ。冬の海は雪化粧し、春の海には花が咲き、夏の海は全てが青く、立(りっ)秋(しゅう)の海の波の荒さは私を一番惹(ひ)きつける。

 一番好きな海は、旅人も訪れることもない廃(すた)れた漁村の海である。そして夕方と真夜中と夜明け前の海に惹かれる。

 いつの日にか、私の一番好きな海を、私の一番好きな形で撮影する日が来ることが、今、唯一の楽しみである。素朴な、旅人も誰一人来ない、廃れた漁村の寂しい海を、夜明け前も、朝も、昼も、夕方も、深夜も見たい。晴れの日も、時化(しけ)の日も、雨の日も海を見続けたい。そして人の心に残る写真を撮れる日が来ることを願う。」

 

 

【●全体解説】拙著『旅に心を求めて・不条理編(下)』より

  《旅四日目、一八日》①水俣~②天草船中~③天草~④キリシタン館~⑤富岡~
           ⑥五和町
 天草南にて。「本渡市に行くまで道が細く、走り易くなし。天草は南と北が、海の色も風土も別世界であった。南は素朴な人気(ひとけ)のない島であり、北は素朴さが少しは残っているものの観光地である。この日、天気悪し。天気が悪い時でも、南側は写真が何とか撮れる場面もあり……。尚、佐敷から天草へのフェリーで初めて自分の車ごと乗船する……。……海は意に反しほとんど荒れず……」(道中記)。

 

 キリシタン館にて。「この日、長崎まで行く予定であったため、立ち寄るも受け入れる心なし。ただ、それでも館内にある絵の色の鮮やかさが印象に残る。いつの日かのんびり旅をすることもあろう。その時じっくり味わうこととする」(道中記)。

 

 天草北にて。「苓北(れいほく)町の富岡城跡に行く。こうした所でも、やはりのんびりした気分でじっくり景色を見学しなければ、旅の心は持てない。長崎行きを焦り、簡単に見学する。……フェリー乗り場に着くも……船がでた後で、次は一七時であった。この日長崎に渡る予定でいたが、着いてからの宿探しが不安となり、途中寄った五和町の観光案内所で入手した民宿住吉で宿をとることとした。

 

 民宿住吉。豪華な料理と聞き、ひょっとして、その種のものは食べられないかもしれないと不安がよぎる。だが、幸いなことに嫌いなものはなくほっとする。家族連れであれば豪華なご馳走で楽しいであろうが、……」(道中記)。
 この夜、他の客が一人もおらず、水俣で一仕事終えた安堵感に加え、約二年ぶりにビールを飲んだ酔いもあり、宿帳に、海について思うがままに記す。民宿で記した内容は、迂闊(うかつ)にも控えを取らなかった。翌日、口之津で撮影した写真作品「島原斜光」の添え書きにしたいと考え、後日懸命に思い出した。概(おおむ)ね、次のようなことを記した、と思う。

……

  《旅五日目、一九日》①鬼池(天草)~②口之津~③島原~④雲仙~⑤長崎
 口之津にて。「一九日朝五時に起き、六時前に宿を出る。前日迄、雨と曇り続きであったが、早朝フェリーに乗ると思いもせず、もの凄い雲の中から太陽が顔を出し始める。厚い雲から、太陽が顔を出す時には、太陽の光が雲の隙(すき)間(ま)を狙い、上にも下にも光の筋を作る。鋭い光の筋・〝斜光〟の神秘をかいま見た。船中で斜光を写し続けた。色はオレンジで一定満足のいく写真が撮れた。鬼池から口之津への途中である……。口之津湾(長崎県)に着いても斜光は続いていた。赤い濃いオレンジ色は消え去ったが、それでも斜光には神秘がある。そして口之津から島原への道中で灯台と船と斜光を撮り続けていると、一羽の鳥が飛んできた。その瞬間を撮った写真を『島原・斜光』と名付けた。……」(道中記)。


 島原にて。「島原城に着いた時は天気が今一つであった。城を簡単に見学した後、城周辺の彫刻の写真を撮る。後で北村西望の作品と知ると同時に、西望記念館がこの城の横にあると聞き、鑑賞に出かける。これが、この旅の大きな予期せぬ収穫となる……。『館内で(作品の)写真を撮っても良い』という(北村西望氏の御子息らしい方の)御厚意に甘え撮影をする。とはいっても三脚使用は自主的に遠慮した。(ストロボ使用許可をとった後で)ストロボを使用する。ストロボ撮影には慣れていないため、一定枚数は撮ったが、後で思いきり撮っておけばよかったと悔やむ……。写真は『将軍の孫』、『笑う少女』、『平和祈念像』(長崎平和祈念像の下絵型彫刻)、それにあと一つの像を撮る。『将軍の孫』、『笑う少女』、『母親の像』、『加藤清政』、『原爆祈念像』を確実に全部撮りたかったのであるが、……」(道中記)。