- 子雀のおしっこ―これで良かったのだろうか、あれで良かったのだろうか。
- (2017年1月5日制作):【写真番号】上→03-012-25A-f:下→03-012-24A-f
- ある日、子雀が部屋に舞い込んできた。
子雀を誘導し、被写体として良い位置に持ってきた。
後は完璧に決めるのみ。
時間の問題。
だが、怯えた子雀は、恐怖からおしっこをした。
そのとき、脳裏に幼き日々のことが蘇った。 - 小学校の頃、ツバメが家の中に入った。
それを追い出そうとしていると、ツバメは窓にぶつかった。
観察すると、血を流していた。 - 子雀が飛べば、あのときのように怪我をするだろうか。
その瞬間、私は無意識に窓をあけていた。
そして、子雀は逃げていった。
これで良かったのだろうか。 - 後で思った。
まだ数枚しか撮っていない。
もう少し粘れば芸術的な写真が撮れたのに。
あれで良かったのだろうか。 - 後悔した。
そのとき脳裏に、1996年水俣から長崎へ行く途中、島原に行ったことを思い出した。
さらに、島原から長崎へ向かっていると雲仙普賢岳が見えてきた。
災害の跡がある。
カメラマンならば、誰でも写真を撮りたいと思う場面であった。
私も撮ろうと思った。 - ところが、被災している人が何人か戻っている姿が見えた。
その瞬間、シャッターが切れなくなった。
人の不幸を撮るのに抵抗を感じた。
これで良かったのだろうか。 - カメラ二台持参していたにもかかわらず、シャッターを一枚もきれなかった。
長崎近くで、雲仙普賢岳の被災跡を撮ればよかったかとも思った。
私の本に掲載すれば、災害問題や、支援につながるかもしれないのに、と。
あれで良かったのだろうか。
- 今でも思う。
撮るべきか、撮らぬべきか。
- だが、思い出せば、こうした場面でいつも私は撮れなかった。
- これで良かったのだろうか。
いつもの問いをこの日もしていた。
そして、子雀のときも。
あれで良かったのだろうか。
【●全体解説】解説にかえて、二つの資料を掲載する
(資料―1)『閉じた窓にも日は昇る(下)』(Kidle版・百円)より抜粋
☆☆抜粋開始☆☆
●二〇〇五年賀状・『小さな訪問者達』――我が家界隈〇メートル以内の鳥達
もう、かなりの長期に亘(わた)り、友を訪ねて行く金はない。ただ、振り返ると、二〇〇〇年にはKW君が、後藤先生一家が、二〇〇一年にはITさんが、二〇〇二年には後藤先生とST君が、二〇〇三年には再度ITさんが……と、家に監禁されていても、わずかな訪問者があったではないか。
そこで、私の寝室に忍び込んだ子雀を撮影した写真をこの年の賀状のテーマとした。同時に、この年の写真には私の深い訴えがあった。要するに、自分のエゴ(この場合ならば撮影欲)で小鳥を傷つけてはならない。私は、他人のエゴ、現実の世界ならば岡短や「機構」のエゴで、映画説ならば同関係者のエゴで傷つけられ続けてきた。それらの苦痛が無意識に撮影途中で子雀を逃がしてしまった。
自分のエゴのために他人を犠牲にするのは人間として、生き物として、最低の行為である。その批判をしたのが、この年の賀状のテーマであった。同時に、多くのカメラマンへの警告の意味も持っていた。一見、見事と思われる写真よりは、カメラマンの人間性に基づいた写真を、という呼び掛けである。
もう一つのテーマは、記すまでもなく、もう私の行動範囲は〇メートルである。人権蹂躙(じゅうりん)の域を超えているではないか。映画説ならば、関係者は狂っている。映画説でないならば、「機構」などはこれ一つで存在を許されぬ機関であることの証明である。それを極めてヒューマニズムに基づく写真で表現した。
☆☆抜粋終了☆☆
★★これ以降は、エッセイ『閉じた窓にも日は昇る』にて掲載をする。
(資料―2)『旅に心を求めて―不条理編(下)』(Kidle版・百円)より抜粋。
☆☆抜粋開始☆☆
雲仙にて。「島原への道中、災害跡地を見る。雲仙普賢岳の被災の跡がまだかなり残っており、写真を撮ろうと思い、車を止めた。しかし、既に地元の人が帰っておられる家が数軒眼に入り、シャッターは切れなかった。どんなに撮影したくても、被災された方がいるときに、人の不幸を撮ることを、私の本能が拒否した。
カメラを二台所有していたが、ただの一回もシャッターは切れなかった。人気(ひとけ)が全くなかったり、地元の人がいなかったりした時は、交通の邪魔にならない限り撮る。しかし地元の人が付近にいれば、撮ることは被災者感情を考えると生理的にできなかった。この後、雲仙を味わう……」(道中記)
☆☆抜粋終了☆☆
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