【●全体解説】

拙著『旅に心を求めて・不条理編(下)』より引用。

この像の解説として、恩師宛への手紙の箇所を抜粋する。

「……同封の写真は北村西望作、長崎『平和祈念像』の写真です。一九九六年一一月に島原に行き、北村西望記念館で西望の諸作品を見た後で、長崎にて北村西望の『平和祈念像』の写真を撮りました。天気や方角の関係で、真夜中に焦点をあてて撮影を致しました。この日の条件では、平和記念公園に着いた一七時頃では写真にならないからです。……


 長崎平和祈念像を明るい時に望遠で顔を中心に写しますと、同封の写真の如く非常に柔和な顔をしていました。
 平和祈念像は厳しい顔と考えていましたが全く違っていました。北村西望氏の作品は『日蓮上人』『若き日の織田信長』という彼本来の作品である〝剛〟と『若き日の母』『将軍の孫』に見られる〝柔〟あるいは〝和〟の系列がありますが長崎平和祈念像は首から下が前者で、顔は後者でした。これは私の思いもよらなかったことです。


 もっとも、祈念像の顔も、時には柔和に見え、時には厳しく見えるように、恐らく作者が意図的に作っているようにも思えます。北村西望氏は、祈念像の顔の表情が時間と角度により、厳しくなったり、柔和になったりと変化するように意図したのではないかと思っています。……


 〝長崎平和祈念像・魂〟について。広島平和公園内『教師と子の像』の撮影後に、広島に行き直した一九九五年に失敗しましたため、どう撮影するか思案し思いついたのが真夜中に撮影するでした。そして夜に像を撮影するために郷土・●●の幾つかの像を真夜中に撮影実験し、そのデータとアイデアをこの像の再撮影のため固めていました

 しかし、一九九六年一一月に行った長崎の平和祈念像を撮りようがなく、その蓄積していたアイデアをここで使ってしまいました。長崎の平和祈念像撮影の夜中撮影は偶然の思いつきではなく、(何度も失敗し・思案した中で思いついた)『教師と子の像』再撮影のためのアイデアであった訳です。そして狙い通りに、何枚か撮影することができました

 その中から多重露出的撮影となった今回の物を主要作品としております。当然、二重写しでない今回のと類似写真は山ほど家にあります。

 二重写し作品を何故(なぜ)一番の主要作品にしたかは、後ろのダブリの部分を、犠牲者の魂に見立てたからです。よって、この写真のタイトルが『長崎平和祈念像・魂』となった訳です。

 ただ、この写真は新たな問題を生みだし、『教師と子の像』の将来の作品化に向けた再撮影では、新たなアイデアを生み出さねばならない状況ともなっています。」


 (追記。昼の祈念像の顔は〝柔〟であったが、夜の祈念像の顔は〝剛〟に見えた。恰(あたか)も、飛鳥大仏が左から見るのと、右から見るのとでは顔が違うが如く。恐らく、意図的にそのように作成したのであろう。平山郁夫画伯の「大和路・法隆寺の塔」が、見る角度により、趣が違うようにと金箔を利用した如くに。)

 



【備考】北村西望記念館見学の道中記も記載
 島原にて。
 「島原城に着いた時は天気が今一つであった。城を簡単に見学した後、城周辺の彫刻の写真を撮る。

 後で北村西望の作品と知ると同時に、西望記念館がこの城の横にあると聞き、鑑賞に出かける。これが、この旅の大きな予期せぬ収穫となる……。

 『館内で(作品の)写真を撮っても良い』という(北村西望氏の御子息らしい方の)御厚意に甘え撮影をする。とはいっても三脚使用は自主的に遠慮した。(ストロボ使用許可をとった後で)ストロボを使用する。

 ストロボ撮影には慣れていないため、一定枚数は撮ったが、後で思いきり撮っておけばよかったと悔やむ……。写真は『将軍の孫』、『笑う少女』、『平和祈念像』(長崎平和祈念像の下絵型彫刻)、それにあと一つの像を撮る。『将軍の孫』、『笑う少女』、『母親の像』、『加藤清政』、『原爆祈念像』を確実に全部撮りたかったのであるが、……」(道中記)。

【解説】現在、トラブル連続で、まともな文章書けず。長いFieldworkから帰ってから記述予定。