主張―10・新時代における村制度の弊害


第3節・学問への道―5・自然発生型共同体社会と人間

 第2節で起こった事……を科学的に分析する学問が第5の学問である。即ち、この章で、提示する第5の学問は、自分が所属している自然発生型共同体社会の分析である。簡単に言えば、契約ではなく、自分が生まれながらに所属している集団(家族・親戚、自分が所属している地域)と個人の関係についての学問である。テンニースの言うゲマインシャフトと類似している。この第5の学問は主として二つの分野からなる。一つは、家族・親戚などであり、もう一つは自分の住んでいる地域・集団である。
 ……
 第5の学問の第二分野はまだ理論化しておらず、後日、『地方自治の源流――自分達の村は自分達で守る』で理論化予定である。ただし、第2節で記した、私に起こったヨブ記の世界は奇異であったが、その現象にフィルターをかけて元に戻してみると、第5の学問対象である自然発生的集団と個人の問題が土台に横たわっていた。そこで、今回は学術的研究に入る前の予備作業も兼ねて、私に起こった出来事を、この視点から(A)~(H)の順番に記述する。

 (A)《我が村の概況》
 私が生まれた村は、岡山県M市にあるITである。ITは大字であり、その下に小字・NTがあり、ここで生まれた。これを組織・集団として順番に示せば、日本政府→岡山県庁→M市役所→IT自治会→NT組合である。私がこれらの組織・集団に所属しているのは自分で契約した訳ではない。ただし、IT・NTと異なり、日本政府は国家であり、岡山県・M市は地方自治体であり、共に権力を伴っているため、テンニースのゲゼルシャフトやゲマインシャフトとは異なり、これらはどちらにも属さない、第三のカテゴリー(範疇)として分析対象にするという立場を私は取っている。第三の範疇については後日第六の学問としてまとめる予定でいる。この章で第5の学問として取り上げるのは、NT組合、IT自治会までである。

 私は、既に述べたように、M市の大字・ITで生まれた関係でIT自治会に、ITの中の小字・NTという所で生まれた関係でIT自治会傘下のNT組合に、私の意思とは無関係に所属させられている。ちなみに、IT自治会にはNTを含めて八つの組合がある。同時に、自動的にS神社という神社の氏子ともされている。いずれも、契約してなった訳ではないが、義務は多数ある。まず、自治会・組合に金を支払わなければならない。二〇一二年現在では年二万四千円である(その他の関連出費も含むと、金欠で最近講読を止めた新聞の年間額に匹敵する。なお、全国相場は年約二~三千円である)。別に奈良時代で言う各種賦役が課される(溝浚い、道作り)と。都市部では行政の仕事である。更に、徴兵令に該当する物が多数ある。消防団員、愛育委員……と。いずれも事実上の強制である。
 IT自治会と傘下の組合の起源は、都市部の町内会等とは異なり、大化の改新時(六四五年)の五人組隣保制度にまでさかのぼる可能性が高い。……少なくとも近世の五人組制度の影響は確実に受けている。直接的に完全に組織化されたのは、一九四〇年に「町内会」(市部)と「部落会」(町村部)が、国によって組織化された時と思われる。同時に、この時には「隣組」制度が完成した時でもあった。ちなみに、GHQはこうした組織を軍国主義の温床として廃止したが、朝鮮戦争頃から復活を許可したという経緯がある。


 (B)《村の下部構造と上部構造の構築》
 私が生まれた頃、ITという村落は兼業農家も含めればほぼ全員が農家であった。当時は、今ほど農業は機械化されていないため、一軒では農業はできなかった。田植えや稲刈りは組合を中心とする集団で行うことが不可欠であった。更に、金の貸し借りの場として講がおかれていた。その主要な講を中心として組合が形成された。また、葬式は言うに及ばず、結婚式も昔はホテルなどではなく、組合員が寄り集まり儀式を司っていた。組合の女衆が中心となり、結婚式のための食事などを準備した。こうしてITの中の最小単位である組合(場所によればブロックとか班と言い、数はマチマチであるが五軒程度から五十軒程度である。NTは十二軒程度の時が多い)では、生活の糧を得るため、共同・協同が不可欠となっていた。
更に、田畑に水を引くとなると、もう少し大きな集団が必要となり、組合などを八つほど束ねた集団として IT自治会の前身が存在していた。この組織を中心として、村の農業がしやすいように大がかりな道作り、農業用水の確保、山林の管理などを共同で行う必要があった。消防活動も、昔は行政型の消防隊のみでは火事のみか洪水等の災害から住民を守り切れず、別途組織する必要があった。同時に、歴史的経過から、明治以前はIT自体が一つの行政単位であった。当然、IT消防団として組織されていた。

 IT自治会とNT組合は、当時、村の衆が生きていく上で不可欠であった。これら抜きでは生存は不可能であった。当然、こうした身内型集団内(俗にいう村社会)では、嫉妬のみか、子供を巡って親同士の対立を助長する傾向があった。しかし、対立しながらも共存しなければ、村の衆の生存は不可能である。そこで、村という集団が機能するために、共同体意識を強める各種取組が行われた。NT組合での旅行があり、子供の日などは我が家に組合員全員が集まり、今でいうパーティが催された。準備は女衆の仕事であった。各組合の集合からなるITでは、より大きな結束をするため、大人達は今でいう自治会(当時は自治会長に当たる人物は村総代と言っていた)に結集し、若者は青年団を組織し、婦人は婦人会を組織し、子供は子供会を組織していた。
 子供会は、大人も青年も一切関与せず、私が子供会長をした時(一九六四年東京オリンピックの年)には、小学校六年生の私がリーダーとなり、子供会の会議で民主的に物事を決めていた。しかし、子供だけの組織とはいえ結構多忙であった。登校はIT全体の子供を集めての集団登校であり、一月おきに村にある神社の掃除を子供会で行い、そこで得た金でクリスマス会を催し、夏休み(四十日間)の早朝は毎日全員を集めてラジオ体操を行い(欠席者対策もやらされ)、昼からは川で集団で水泳をしていた。冬は二週間程度にわたり、夜の七時頃から火の用心で村中を回った。親が子を守るだけではなく子供が村を守る事に多少なりとも貢献していた。これらを遂行するために、毎月会議を招集し民主的に討論し、物事を決めた。子供会の予算も子供で決め、管理は私などが自分でやり、支出も同様であった。それ以外にも、子供会長をしていると、小学校の図書の本を借りて返さぬ子供の催促役までやらされていた。また、子供間の対立の調整もあり、かなり雑務は多かった。「宿題があるので」とか「勉強があるので」は通用しなかった。なお、これらすべてに大人も青年も一切無関係と記したが、さすがに、水泳だけは親が順番で見張りに来ていた。例外はこれだけであった。後には幾つものタイプ(青年主導やNGO主導等々)の子供会を見たが、それらは欺瞞であり、当時の子供会が本当の子供会と考えている。私が二〇〇九年に組合長になった時にみた、村の今の大人の自治よりは、当時の子供会の方が民主的であり、活力があったように思えた位である。

 IT村独自の祭りもあった。神社の祭り、村祭り、と。勿論、村を守るために、水路組合、山林組合、農家組合、営農組合等々も存在していた。なお、単独では無理なので、それらは他の村の幾つかと共同でより大きなブロックを形成していた。また、当時は兼業農家も含めれば、ほぼ全員が農家のため、農繁期では、IT村独自の託児所がつくられた。食事も、どの家も多忙で準備はできないため、村全体で食事をつくる人を雇い、食事の宅配サービスがなされていた。これらの土台には、農家からなる集落構造があった。なお、IT村とは今でも百世帯余の集落からなるので、当時は六、七百名以上いたであろう。こうして江戸時代の名残を残していた村落にこそ本来の自治の原点があった。勿論、隣組制度の影響を受け、マイナス面も幾つもあったであろうし、村のため個人の利益を喪失して悔やんだ人もいたであろう。私の祖父は、公民館で村の仕事中に脳卒中で倒れ、片腕が動かず、足も動かず、物も言えずに二十年近く寝たきりの生活をしたが、何の保証もなく、それで当たり前と村全体が考えていたくらいである。


 (C)《農業の変化と村の変化》
 高度経済成長とともに、大きな変化が起こった。まず農業の変化である。ITという集落が結合する前提には、ほぼ全員が農業を営んでおり、同時に当時の技術(田植えは集団で手で植え、稲刈りは鎌で刈る)では共同しなければ農業は不可能であった。すなわち生存不可能である。だが、今や、農政の変化の中で農業を行う人はほとんどいない。同時に、一九八九年の構造改善事業により、田畑の交換が行われ、土地への愛着心自体が消えていった。更に、機械化により、共同で農作業をする必要性もなくなった。すると、もはや、村人の結合が生きていく上での条件ではなくなった。

 こうして、必ずしも協同の必要性がないとなると、各組合で行われていた、冠婚葬祭等の儀式は業者委託の家が増大し、組合ごとで行っていた行事は消えうせ、昔は組合のメンバーを全員知っていたが今は家の主しか分からぬ時代となった。更に過疎化も拍車をかけ、IT青年部、IT子供会、IT婦人会などが解散や解消してしまった。こうして、村の必要性から各種制度を作り・維持していたが、黒船来航同様の大変化のため、各種制度の必要性がなくなっていった。だが、必要性がなくなっても――①長く続いた制度に歯止めをかける決断が大変なこと、②制度の廃止を唱えると組合・村の他の人がどう思うかという恐怖心、③自治会・組合が戦前の隣組制度の如く行政に利用されてきた側面があり、そのしがらみから脱却できないこと等々から――幾つかの制度が残り、それが住民を苦しめる元凶となる。その一例が消防団である。
 大昔はIT自体が今のM市の如く行政単位であり、自分らの村は自分らで守ることが不可欠であった。消防団=消防隊であった。だが、合併を繰り返し、行政単位はITからY町へ、Y町からM町へ、更にM市へと変貌を遂げた。こうして、M市内でも全然知らぬ地が相当部分を占め、IT消防団がM市を守ろうとする意識は希薄となる。勿論、消防隊と消防団では装備の格差が余りにも大きくなり、消防隊がかなり充実したことにより消防団の必要性が薄れ、また今や消防活動よりも救急救命活動が相対的に重要となってきているがそれに対応できぬことからも、消防団の必要性は相当薄れてきている(遭難活動や自然災害に際しては三十万人近い――毎日訓練もし、装備もある――日本には自衛隊が存在している)。更に、自営業中心であったITは、今や、若い人は会社勤めであり、もはや自由に消防活動などできる条件も消えうせている。自営業でない人が消防活動をするのが困難な例を友人{我が村の住人ではないが、地元消防団に入っていた私の友人・IT氏(元教師)}の話から紹介しておく。

 私が彼に尋ねた。「授業中に火事が起こったならばどうするのか」、と。
 彼は言った。「授業中に火事が起こっても授業を放棄して行ける訳がないだろ」、と。
 私は訪ねた。「では、夜のために消防団の意義はあるのか。でも晩酌をしていたらどうなるの」、と。
 彼は答えた。「お前な、教師が飲酒運転できると思うのか。飲酒運転撲滅のキャンペーンも知らないのか。晩酌したら、消防活動などできるわけないだろ」、と。
 再度私は訪ねた。「では、夕食の時に晩酌はしていないのか」、と。
 彼は答えた。「お前な、教師はストレスが多いので晩酌をほぼ毎晩するに決まっているだろ」、と。
 二〇〇〇年から二〇一〇年の間に、我が家から百メートル先と五百メートルの所で二度火事の緊急放送をM町・M市がした。一度はITのK組合であった。だが二度とも、IT消防団は一切来なかった。それどころか、ITにある半鐘も一切鳴らなかった。ちなみに、ある村では、消防団に誘われることを「赤紙が来た」と言うそうである。だが、消防団に誘われ断ることは非常に困難である。それが後に言う村構造であり、私への危害への土台である。勿論、M市には立派な消防隊もあるし、近くのN町には自衛隊の駐屯基地もある。行方不明の人が出た時や、大規模火災時には、県知事に連絡さえすれば、即、後者の発動可能な状態にある。


(D)《地方自治の歴史から見たIT》
 IT自治会と行政との関係の変化も政治の世界で起こった。村単位での集落が大きい場合には、明治の市町村令までは、行政上の村(そん)として存在していた。村の集会所=村役場となり、村の長=市町村長であり、村の執行部=村役人であった。そして、現在の議会制民主主義ではなく、直接民主主義が土台となり、重要事項は全会一致で決定されていた可能性が高い(百姓一揆などは原則として全会一致方式で決定されていたと言われている)。村の総会や会議では時には実質的司法的役割も果たしていた時代もあった。村人の声は、他人に遠慮しない限り、村の政治に反映していた。もっとも、国や都道府県(藩)からの命令があり、それを伝達する機関としても機能していた。前者を住民自治、後者を団体自治という。こうして、一方では行政の下請となるが、他方では住民の声で行政を動かせる可能性もあるという相互関係があった。
 だが、こうした細胞単位の村落が合併を繰り返す度に、住民自治は消えうせて行く。具体的に記せば以下の通りである。

 IT村は、江戸時代などには一つの行政単位であった。しかし、明治の市町村制(一八八八年公布、八九年施行)で、IT村はY村等十三の村と合併し、Y町となる{俗に言う明治の大合併で、一八八八年から一八八九年までに市町村数が七万一千三百十四から一万五千八百五十九に減少した}。次に一九五三年の昭和の合併で、Y町と四つの町村{(明治に四村合併後)H町、(十三村合併後)T村、(四村合併後)Y村、(八村合併後)TK村}が合併し、M町となる{一九五三年に九千八百六十八あった基礎自治体が一九六一年には三千四百七十二になり、約三分の一に減少した}。更に、平成の大合併{二〇〇五年三月三一日}で、M町は他の五町村(KT町、OH町、HA村、ST町、AD町)と合併しM市となる{一九九九年三月末に三二三二あった市町村の数は、二〇〇六年四月には一千八百二十にまで減少し、二〇一〇年三月末の時点で一千七百二十七にまで減少した}。

 当初はITが、事実上、細胞とも言える一つの行政単位であったが、明治の町村令ではこれらが約十四集まって一つの行政単位となり、昭和の大合併ではITという単位が四十三集まって一つの行政単位となり、平成の大合併の結果、ITという行政単位が例えで言えば百以上集まって一つの行政単位となった(岡山県では一八八八年一八四三あった市町村が、二〇〇七年には二十七となっている)。要するに、一つの細胞であったITという村は、今や、市の百以上ある村の一つに過ぎない。その結果M市という単位では住民自治からは無縁となり、団体自治の視点からの請負機能のみが残った。要するに、ITが細胞で一つの自治体であった時には住民の声も反映するし、行政の施策も同様であった。だがこれほど多数の細胞が合併すると、ITの一人の声は政治には反映しなくなり、住民自治はなくなる。だが団体自治の方は戦前からの伝達システム(隣組制度等々)により、下請機関的性格だけが生き残り、行政の下部組織的側面を負うことになる。
 IT村が独立した行政機関ならばIT村で決めたことが全てであるが、ITなど十四村落が合併しY町となればその声は届きにくくなる。しかし、頑張り隣の村を六程度口説けば、ITの意思がY町を支配するため、村落意識はまだあった。だが、これが四十三程度となると、更に現在の如く百以上となると、もはやIT村総会などで決めた事が市政、町政に反映されなくなる。他方、団体自治の方は、合併はしても、戦前の隣組制度を始め、軍隊方式の消防団その他の方式を通じて、行政の端末機関としての機能を長期に亘り継続することになる。現在ですら、昔の上意下達方式は幾分残っている。そこで、住民の中には自分らの声は届かぬが、市町村の仕事だけは甘言や過去の慣習を通じて降りてくるとぼやく人間や、不満が鬱積(うっせき)してくる。かといって村から議員をという〝ぐるみ選挙〟は更に住民の疲弊のみか、村民同士や幾つかの村同士の対立にしかならない。


(E)《下部構造と上部構造の矛盾の発生》
 ITという村では、生きていくのに必要な事(α)から、それに応じた制度・組織・慣例(γ)をつくった。しかし、今IT村が生きていくのに必要な事はもはや(α)ではなく(β)となってしまった。そこで、(γ)という制度自体が、我が村の住民が生きていく上で障害となっている。これを三つの側面から考察する。
 一つは、自然発生的共同体社会を維持するためから生まれた制度・慣習問題である。例えば、農業等で必要不可欠である、村全体で行うインフラ整備である。例をあげれば、排水溝清掃(事実上溝浚いであり、本気でしようと思えば場所によれば重機が必要な位の大作業)という立派な土方、道作りなどである。次に、五穀豊穣を祈る事が主たる目的であった神社の維持・管理である。

 溝浚いについて言えば、IT村でも下水がもはや整備されており、また農業と無縁の家が増大し、清掃する必要性を感じない住民が多くなっている。しかも、排水溝清掃は自分の家とは無関係の地をするのである。例えば、我が家前と横の排水溝清掃は一切されない。どうせするならば自分の家の前を通っている排水溝の方をしたいに決まっている。更に、村で対象とする排水溝(幅平均一メートル余りの小川が実態)の水は流れているためなおさらする必要性はない。しかも毎年の溝浚いにより、昔生存していたフナ・ナマズ・アメリカトチガニ・メダカ……は絶滅した。水清くして魚住まずである。
 道作りも同様である。私が登記簿で調べると、この道の持ち主はIT村とは無関係であった。未定義、公衆道路(旧建設省・県・M市所管)などからなっており、我が村の所有地ではない。勿論、川の土手などは法律で地方自治体の管理となっている。この道は、橋ができてからは、川の土手を散歩している人の大半が顔も知らないよその人である。高速道路が間もなく開通するため、村のほぼ全部の小道についてこうした現象が起こると予想される。簡単に言えば、大阪の淀川周辺の人が、無料で淀川周辺の草刈りを強いられるのと同様である。当然、都市部では行政の仕事として認知されている事項である。

 神社は昔は五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈るため、またそこに結集し村の団結を固めるため必要な時期があったかもしれない。支える側も、村に相当な人口がいた時には、さほど苦痛はなかった。しかも、大半が自営業で時間はやりくりできた。今は、過疎化・少子高齢化の中で、わずかな人数で山のような大きな神社を維持しなければならない。しかも、昔と異なり、自営業ではなく会社勤めが大半であり、仕事を休むのは至難の業である。そして、神社への崇拝心の変化もある。神社は農業と密接に結び付き、農村社会のシンボル的意味を持っていたが、もはや農業をする人はほとんどおらず、農村社会構造も解体している問題がある。更に、自己の信ずる宗教によれば、神社活動を否定している宗派もある。憲法二〇条(宗教の自由)問題も出てきている。

 二つ目は市町村行政とITの間で作られた制度・慣習問題である。例えば、市の広報配付作業や、市の各種下請業務問題である。「広報M」は市からIT自治会へ、更に組合へと流れ、各組合長が各戸配付する。また、市が関与している民生委員・愛育委員・消防団員……などは、このIT自治会に割り当てれば、もはや村の対人関係上拒否できず、人員の徴集は簡単に可能となる。
 私が組合長になる数年前には、納税組合もあり、NT組合長は納税組合長も兼任し、市民税・法人市民税・固定資産税、軽自動車税・国民健康保険税を、組合員が全員支払うよう啓発活動(事実上督促活動)をさせられていた。(詳細「M市納税組合規則」参照。)税の支払いを自治会・組合を通して、隣人関係を通して完遂するのは、まさに戦前の隣組制度でしかない。

 更に、行政がすべき道の管理も、各地の自治会・町内会を競わせ、彼らにボランティアという名の下で、参加させるシステムが確立している。小さな道作りその他の行政の仕事を住民からの賦役という租税でまかなえることになる。税は、固定資産税、相続税、法人税、所得税、住民税、消費税……だけではない。田舎では、賦役という税が奈良時代同様にまかり通っている。賦役にかかる費用はどうするか。その費用は無料の肉体奉仕と自腹である。別に自治会や組合などで集めている、年間二万四千円の自治会費・組合費は、賦役後の食事代などであるが、賦役がなければ、食事代はいらない。
 ある市長が言っていた。田舎の自治会・町内会は必要である。なぜならば防犯灯などは自治会・町内会が作っているのだから。巫山戯(ふざけ)るなとなる。だが事実である。先の毎年支払う二万四千円などで作られている。本来ならば、行政の仕事であり、市役所がつくる物である。そう、大昔は国道などをつくる時は金がないので地元の住民をかり出した時もあった。勿論、大半無料で。国道の側に家があるので、お前らが一番徳をするのだから当然である、と。時には、国道周辺の住民から特別に金を取ったこともあった。こうした発想が未だに残っている。もっとも、市町村役場にしても、こうした自治会・町内会の活用に関して、一定の助成金を出さねばならず、対費用効果はもはやない可能性すらある。

 三つ目は、国や都道府県などが住民操作をするために作った制度・システム・慣習とその遺物の弊害問題である。即ち、隣組制度型利用価値を温存しておきたいという行政の一部の人間による無言の圧力問題である。日本の行政は政府→都道府県庁→市町村役場→自治会・町内会→組合(ブロック若しくは班等々)と言う形でシステム化されている。行政が仕事を住民に押しつける時や土地買収問題などの際にこのシステムは効果を発する。例えば〝ボランティア〟という名で各種押しつけが可能となる。仕組みはこうである。隣村がやったので、我がIT村もHをしなければならない。そこでHという仕事をIT村で引き受けた。ITには八の組合がある。本年は隣の組合が引き受けたので、来年はNT組合が引き受けよ、と。NT組合の中でも、今年はAさんが引き受けたのだから、来年はBさんが引き受けよ、という。昔の五人組制度類似型システムである。これは(F)で述べるように、する意味のない仕事、したくない仕事の時に特に有効に住民を活用できるという法則性を内在した制度である。同時に、県道をつくる時の土地買収などは自治会を通せば誰も拒否不可能となり、構造改善事業を行う時には土地の交換なども同様に誰も拒否不可能となる、大変便利なシステムである。徴兵令実施の際には不可欠の制度でもある。


 (F)《矛盾を押さえ込む隣組精度の遺物》
 下部構造の農村共同体社会の上部に各種制度があったとすれば、下部構造が大きく変化した今、上部にある各種制度・機構・構造に対して住民が拒否したり、自治会が何故それらを即座に廃棄したりしないのかという問題を、村構造と村の衆の姿を概観することにより紹介する。

 既に述べたように、村の人間が生きていく上で、村落共同体社会に様々な組織・制度をつくることは不可欠であった。だが、それは一方では隣人を親しくする役割を果たすが、他方では各家間の競争意識、更には、隣人同士での比較や妬みなどを助長する構造を内在している。隣人が家族団欒で楽しそうならば、そうでない家は深層心理の中で鬱憤(うっぷん)がたまる。他方、車の修理関係をしている人が爆音に近い音を真夜中に鳴らしても、近所の団結から何も言わない。(私も言わない……。)都会はその逆である。夜中に爆音に近い音を鳴らせば誰かが110番をする。他方、隣人が家族団欒で楽しそうでも気にしないというよりも、それに気づくこともない。隣人が大掃除をしていても同様である。何故ならば、こうした組合(ブロック)や自治会での結束が村ほどないため、隣は赤の他人にすぎないからである。隣人が美味しい物を食べても、自分が美味しい訳ではない。よって、他家の事はどうでもよい。これが都会の人間の心理である。これが食事ではなく子供の問題となると、更に複雑な人間関係を田舎では生み出す土壌が形作られていた。本来ならば、他家の子供の学力があろうがなかろうが、金を儲けようが儲けまいが、隣人には無関係であり、他家の子供が丁寧に挨拶したりしてくれることだけが意味があるにすぎないのであるが。

 田舎のこうした深層心理も活用して、事実上の隣組制度が構築されていた。例えば、NT組合のAさんの所にGという仕事を押し付けられた時には、それはもう必要ないので止めましょうと言えばよい。だが、Aさんがそれを言うとNT組合のBさんやCさんやDさんが……どう思うか、あるいはAさんのツケをBさん、Cさん等に押し付けることになるので、無理をしての引受けが起こる。ではNT組合で全員一致すればとなっても、誰が何を考えているか分からず、近隣の組合との軋轢を避けるため、誰も言い出せない。更に、IT村で決めようと言っても、かつての長老達は隣の村の顔色を気にするという構造も構築されている。

 しかも、隣組型制度は誰もしたくない仕事、する意味もない仕事の時ほど、余計に断り辛くなる心理を生み出すシステムである。好きな仕事とか、意味があるとか、本当にしなければならない仕事ならば、押し付け合いは起こらない。楽しいとか意義あれば、当番でなくても、自分がしても良いと思う人が必ずでるからである。各種サークル・倶楽部などを思い出せばよい。したくない仕事・する意味がない仕事だから他人に押しつけると卑怯とか申し訳ないという心理を生み出し、住民に様々な賦役の押しつけが可能になるように巧妙に作られた隣組制度の遺物である。ほぼ全員がしたくない、意味がないと考えているならば、全員で「やめましょう」と言えばすむ話である。だが、戦前の軍隊の如く住民は分断され、誰が何を考えているか不明のため疑心暗鬼となり、しかも小編隊ごとに組織されているので、嫌な仕事を誰かが断ると、その人は卑怯と村八分に近くなることを怖れて誰もが引き受ける構造が生き残っている。

 こうした仕事や制度に意味があった時にはまだ我慢もできたであろう。だが無意味となれば、こうした仕事や制度に鬱憤がたまる。更に、負担も、過疎化に伴い増大していった。都会の人は、ノスタルジアから、農村の神社掃除や道作りなどを美化したがる。NT組合の現実を紹介しよう。現在(二〇一一年時点)の世帯数は一二世帯である。その内お年寄りの独り暮らしの家が二軒、空白の家が一軒であり、戦力になるのは残り九軒である。その中の一軒である我が家をみてみよう。我が家は本家の関係で、昔は三世帯が同居し、一時は住民は十三人を超えていた。しかし今は私と母のみ、(二〇一二年現在)九十三歳の母が長期療養中は私一人である。そうした中で、昔と同じ分量の仕事をこなすということは、常識に反している。こうした中で、先の賦役をこなすのである。
 かつて、末期癌の人が組合長となった。彼は無理をしてこうした行事に参加せざるをえなかった。だが、後半は無理がきかずに、住民の手前、数百キロ離れた広島市に住んでいる自分の息子を賦役に出した。そして、この半年後に彼は死んだ。末期癌でも賦役は休めぬのである。九〇前後の高齢者も同様であった。


(G)《隣人の私への対応と行動の謎解き》
 では、次にヨブ記の世界の種明かしにはいる…(省略)…


 (H)《都会と異なり村は老人天国?》
 ヨブ記の種あかしは終わったが、我が自治会について、もう少し解説をしておく。村では助け合いがあるので老人は暮らしやすいというのは、大半の村では嘘である。今や、我が村の独り暮らし老人達にとって、自治会や組合は大変迷惑な存在となっている。同時に、大変不便な存在となっている。私の母(二〇一二年九三歳)が家にいた時、どれほど組合の人などに引け目を感じたであろうか。迷惑をかけてはいけないとか。あるいは我が家ではなくても、村の道作りや溝浚いの日に、どの位の人が参加できないため後ろめたさから家に籠(こ)もり外出を避けたであろうか。自治会があることにより、老人諸君の相当数が肩身の狭い思いをしているのが、私が見た実態であった。……

 もし、IT自治会やNT組合が存在していなかったならば、もはや近隣の付き合いと親戚付き合いのみが残り、どの位楽かと思ったかしれない。その時は、行政ももはやIT自治会やNT組合に物を事実上の強制で頼むことは不可能となる。市から直に愛育委員になってほしいと言われれば、なりたい人はなるし、なりたくない人はならない。だが、IT自治会に割り当てられたならば、他の組合がしたのにNT組合がしないのは可笑(おか)しいといわれることを怖れ、NT組合は断れない。NT組合の中ではDさんが断ればEさんに押し付けたとなり対立が起こる。巧妙な支配体系である。IT自治会もNT組合もそうした市の特別職員の斡旋(あっせん)などはする必要がないのであるが、大昔からの慣習が残り、斡旋することになる。消防団も同様である。なりたい人がなる消防団が本当であり、自治会や組合に割り当ててはならない。自治会は、それがあることにより、全体として自治会がない時よりも、住民にとって利益があるときのみ意味がある。その逆の時は意味がない。

 村の自治はどうあるべきか。いずれ、『地方自治の本流――自分達の村は自分達で守る』の中で記す予定でいる。ただし、これはIT村が行政単位として存在していた場合の話であり、現在ではM市の住民がM市を守るである。詳細はこの書物の中で記すが、これからの自治会等は最低限の事のみ行い、最低限の費用のみ徴収し、後は各種サークル(「旅行友の会」「桜の木を守る会」……)として活動すべきであろう。自然発生的団体を目的志向型組織に変換すべき時期にきている。なお、私は(目的と楽しみを持ち一切の強制なしで行う)本当のボランティアを否定してはいない。消防団でも日本型徴兵令型消防団ではなくアメリカ型消防団には興味をもっている。ちなみに、サークルは楽しくなければならず、ボランティアも生き甲斐と同時に楽しくなければならない。それら抜きではボランティアとは言わない。村構造・日本型自治会を利用してのボランティアという名の賦役は租税と同一であり、租税法律主義にも、地方間の税の公平さにも違反している。

 『地方自治の本流――自分達の村は自分達で守る』の中で、自治会間の合併や、協定型広域自治会連合体、あるいは神社の合併問題も論じる予定でいる。……そして、農業その他の下部構造とその上にできた自治会・組合組織との矛盾が起きているため、それに対応する全く新しい制度と組織が望まれている。その道を辿らぬ限り自治会・組合の解散しか、住民を守る手段はないであろう。何故ならば、生きている人間が一番重要だからである。

 文中でX(誰か)による策謀とXなる人物を出した。Xは誰か。私にも分からない。だがXが介在したことは事実であろう。私が、二〇〇九年NT組合長をした時、分裂政策を嵐の如くしかけられたのだから。第一弾は宗教を巡ってであった。……
 第二弾は、……



  • 【上記文書に関する解説】
  • 《①引用元》浜田隆政『旅に心を求めて――懐かしきの心を求めて』(2013年出版社へ送付原稿)の〝第5章・鑑真和上と第五の対話――ヨブ記の世界〟より抜粋。