雑話-4・風俗論2

第四回・狂っている児童ポルノ法、作ったのは裸の王様か(2015年10月28日掲載)

 私は現代のイドラ(ベーコンの言う偏見)への挑戦として、第一弾では偏差値問題をとりあげた。第二弾として、風俗問題である。
①売春は法律で罰すべきか否か。(私見=罰則を設けるべきではない)。
②児童ポルノ法はあれでよいのか。(私見=今の児童ポルノ法は親方日の丸法であり、芸術上も、人権上も問題が多い。)

  •  今回は、②についての私の見解を以下記す。その後で結論のみを簡単に述べる。なお、下記の文章は友人・布袋(ほてい)さんとの会話という形式をとっている。布袋さんの本名は記せない。また、文中のボンとは私(=浜田)をさす。

    【前置き】こんなに馬鹿な法律があろうか?

    幾つかの現象を箇条書する。

    ①宮沢りえの『Santa Fe』は撮影時点では17歳であったとも報じられ……真相は不明。ただ、国会ではこうした本は廃棄するようにとのこと。本日、ネットを調べると、同本は「『Amazon』から削除され、朝日出版社の販売ページからも消えている」との指摘もあった。
     実にクレージー。

    ②上記本以外でも、以前、撮影され、国会図書館などに所蔵されていた本ですら、現在閲覧禁止だそうである。しかし、法律上、国会図書館といえども所有していたら、法に反すすのでは。同館職員が仕事以外で目にしたら、これは懲役になるのだろうか。実にクレージー。

     ③下記のごとく、こんな法律があったならば、原田美枝子、手塚さとみは女優の道はなかったであろう。経済の自由、職業選択の自由に違反している。実にクレージー。
     芸術なども萎縮をするであろう。馬鹿馬鹿しい。
     もちろん、日本ならば昔のセサミストリートの冒頭のごとく、男子・女子の児童が上半身裸で走り回れば、NHK教育は営業停止。語学を目的でそれをダビングした高校生・大学生・学校の英語教師はもとより、小中学生すら逮捕か家裁送致。まさに、まさにクレージー。

     ④だが、児童が被害に?下記に記したように簡単な方法がある。
    1)撮影に当たり、本人・両親の同意
    2)その種の専門弁護士立会いの下で契約を交わす。
    3)撮影に当たり、親などの立会いを不可欠とする。
    4)撮影された物は必ず国会図書館などに送付する。
    5)判断に迷ったときは常設の専門委員会で審議をする。
    これで当然犯罪は防げる。赤子でも分かる。
     こうしてできた作品は、所有は当然当たり前である。話にならぬクレージーさ。

    ④では、なぜ、おかしな法律をつくったのか。
     一つは、裸の王様。もし、ここで自分が反対したならば世間がどう思うか。また、世界がどう思うか。だが、裸の王様である。他方子供は裸なら大問題。
     二つ目は、奴隷労働問題全体を取り締まると、風俗や児童ポルノ以外の分野に波及する。また労働条件はグラデーションである。そこで、非正規や研修生問題への波及をおそれ、性と児童を強調することで、他の劣悪な労働条件を切り離し、他を温存したとしか思えない。
     逆に言えば、すべての強制・たこ部屋・監禁、人権に反する劣悪な労働全部を取り締まれば、児童と芸術問題も、売春と犯罪問題も本当に重要な箇所はすべて解決する。だから、それを恐れて、枠(性と児童に限定)を決め、他の劣悪条件の温存目的でこうなったとしか思えない。

    ⑤しかし、これらの規制は、国家による言論・表現の自由の規制は当たり前という風潮を浸透させ、国家による言論・思想、表現や出版のいきすぎた規制に対してすら国民を鈍感にし、こちらの方では性・児童問題以外に波及する危険性を秘めている。


     以上を前置きした上で、拙著『日本のフィクサーME・下巻』の一部を読んでいただきたい。上記前書きと異なり、娯楽的に記しており、大変読みやすいと思う。

    最後に、再度言う。王様は裸である、と。同時に、親方日の丸の臭いもする。背後にずる賢さの危険も感じる。
    ↓以下、拙著『日本のフィクサーME・下巻』第5章第10節より抜粋。

  ……
 「では、博学ボンに聞くけど、児童ポルノ法についてはどう思う」
 「これも邪(じゃ)道(どう)だよ。強制労働、監禁・蛸部屋(たこべや)労働、人身売買等々を全て完璧になくす気がないから、その一部にある児童ポルノのみを規制しているんだ。弊害は幾つもあるよ。芸術問題、記念、法矛盾、恋愛の国家統制等々と」

 「どういうこと」

 「じゃあ、言うよ。女優の手塚理美(さとみ)あるいは原田美枝子のこと知っている」

 「手塚理美は一九八二年のNHK朝の連続テレビ小説『ハイカラさん』ではヒロインだったよね。原田美枝子(みえこ)は映画『恋は緑の風の中』でデビューした女性だね。ああ、そうか。あの映画は一九七四年の映画だね。あの映画の中のヌードシーンは覚えているよ。原田美恵子十六歳となるね。でも手塚理美のヌード写真は一九八二年だから二十一歳なんで問題ないよ」

 「愚(おろ)かなことを。手塚理美が有名になった原因の一つは彼女が十四歳のときのヌード写真だ。中学生のときのヌード写真だ。僕の記憶間違いではない。僕は一九七五年に某中学校講師をしていたんだ。そのときに女生徒三人が僕の部屋に遊びに来て、僕の部屋を徘徊(はいかい)し、『週刊ポスト』か『週刊現代』を見つけて、僕をからかったんだ。というのはその雑誌の中に手塚理美のヌード写真があったからね。逆算すると手塚理美は十四歳以前にヌード写真を撮っていたんだ。でも、中学生三人が言っていたよ。綺麗(きれい)な写真ね、て。だけど、今はこれらは全部禁止だ。実に馬鹿げている」

 布袋さんは保守にも拘(かか)わらず、こうした方面だけは、その逆の人間であった。時には、私よりも詳しいのではないかと思えるくらいであった。そこで、私に同意しながら、宮沢りえの例をだしてきた。
 「そう言えば、宮沢りえのヌード写真だって、十八歳の時のだけど、もう一年早いと今だと犯罪となるね」

 ここで、私は児童ポルノ問題について解説することにした。というのも、動物の本能として性の問題がある以上、臭(くさ)い物(もの)に蓋(ふた)的発想は問題が多いからである。その上、ドサクサに紛(まぎ)れて他の重要な問題を覆(おお)い隠(かく)すときがしばしばあるからでもある。

 第一に、芸術問題のみならず、自由権の視点からも問題が多い。勿論(もちろん)、規制を悪用される危険性と規制が他に波及(はきゅう)し、自由全体が統制される危険性の問題もある。

 女性に限らず、人間には一番綺麗(きれい)なときに写真を撮られたいという願望がある。人によれば、首から上が、和服姿が、下着姿が、ビキニ姿が一番綺麗な人がいる。同様に真(ま)っ裸(ぱだか)になれば一番綺麗な人と様々である。年齢も同様である。一番綺麗なのは小学校六年時、中学生時代、高校のとき、二十歳のとき、三十五歳のとき……五十歳のときと、人によりピークが違う。だから、自分の一番綺麗なものを、一番綺麗な形で、一番綺麗な年齢のときに撮って残しておきたいと思う人は多い。それを、一律に規制し、しかも肝(かん)心(じん)の不当労働――特に性以外――の方は放置するのは本(ほん)末(まつ)転(てん)倒(とう)である。

 手塚理美は十四歳のときのヌードが一番神秘的であった。逆にヌードではないが三田佳子(よしこ)は五十歳前後のときが一番綺麗であり、浜木綿子(ゆうこ)も若いときよりも五十歳を超えた頃の方が良い。桃井かおりはピンク映画に出ていた若いときよりも三十歳を過ぎたころの方が綺麗である。宮沢りえは十八歳のときか、ひょっとするとそれ以前のときの裸がピークだったと思う。人様々である。それを一律に規制することはできない。

 また、私が大学の頃迄(まで)は、中学生どころか小学生の全裸の写真集が山ほど出ていた。小学校の全学年、中学校の全学年、と。それらを扱(あつか)っているのは、アダルトショップではなく、紀伊國屋書店や旭屋等の通常書店である。それも大抵(たいてい)、写真、絵画などの芸術コーナーにおいてあった。

 私はカメラマンの端(はし)くれでもあるため詳しいが、これらの写真のほとんど全ては女性カメラマンが撮影していた。そしてその女性カメラマンの所には、全国から少女が写してほしいと山ほど来ていた。しかも出版社は有名な大書店である。当然、契約は両親同伴で行い、撮影は両親立ち合いの下に女性カメラマンが撮り、大手出版社で編集・出版されていた。出版時には国会図書館にも数部送付されているはずである。

 女の子への謝礼(しゃれい)は多少あったであろうが、それが目的ではなく、友達同士で一番綺麗(きれい)なときに写真を撮っておこうというものが多く、一部には手塚理美型で出版を機会に芸能界へという人もいたかもしれない。同時に、その写真コーナーには、人は余り来ていなかった。全裸(ぜんら)の女の子の写真でも大抵の人は見向きもしなかった。当時はヘア禁止にも拘(かか)わらず、小学生くらいの子もいたからヘアがないから全部見せていても、人だかり所か大抵(たいてい)の人は素通りであった。
 と言うのも、全裸の小学校六年生が友達と数人で写り、ニッコリ笑って写してほしいという表情、あるいはみんなではしゃいでいる写真などは馬鹿馬鹿しくて見られないからである。買うのは、その子の親や親戚(しんせき)か同級生の親達が付き合いで買う程度と思われた。それと一部のカメラマンや芸術愛好家達、と。

 それに、アメリカのセサミストリート等は、今ならば児童ポルノ法にひっかかるかもしれない。少なくとも製作に当たって頭を悩ますであろう。冒頭のシーンなどでは男の子も女の子も上半身裸で遊び回っているのが何回もあったからである。
 子供が冬に裸で走り回るのは健康的で良い。見る人ですら健康になる。そのときに男の子はよいけど女の子は駄目というのは不自然である。規制が親方日の丸型で杓子定規(しゃくしじょうぎ)でしかない。


 第二に、こうした児童ポルノにより退廃(たいはい)現象がうまれるということに根拠がない。
 ヌードになれば女性が退廃するというのは全くの出鱈目(でたらめ)である。手塚理美が覚醒(かくせい)罪で逮捕された等は聞いたことがない。桃井かおりは十八歳前後の頃と思うが、ピンク映画によく出ていた。全裸のシーンは当然あるものの、どう演じて良いか分からなかったそうである。というのは彼女はそのころ処女だったと本人が言っていた。だから、ヌード写真を若いときに撮れば人間が堕落(だらく)するというのは事実に反する。

 布袋さんは、三十年ほど前に池袋で古い映画を特集する映画館で、桃井かおり(この頃は彼女は大女優で

 「幸福の黄色いハンカチ」などに出演しており、ヌードとは無縁の女優だった)の若い頃のピンク映画を見に行ったとのことであった。しかし「映画の中の絡(から)み時の表情は演技とは思えなかった」そうである。
 そこで、以前読んだ桃井かおりの話を紹介した。「後に桃井かおりが語ったのを聞くと、スタッフが、絡み合いの途中で事前の打合せなしに、桃井かおりをくすぐったり、思い切りつねったりして、その痛みなどであの表情となったそうだ」、と。要するに、こうした写真や映画と犯罪の因果性についての科学的根拠やデータは何もない。みんながそういうので言っておかねばというだけである。江戸の画家達が聞けば嘆(なげ)くであろう。因(ちな)みに、見る側の方も堕落(だらく)の根拠はない。


 第三に、児童ポルノが犯罪に巻き込まれるのを防ぐための手段が他にある。
 私が思うには、ヌード写真などの撮影は何歳からでも可能であるとし、条件を付けるだけで問題は防げると考えている。例(たと)えば、本人の合意、両親の合意、その下で出版社との契約時にはその種の専門弁護士を代理として契約を行う。
 必要時には国家の第三者専門委員会に諮問(しもん)する。撮影に際しては両親等の立ち合いを不可欠とする。そして、作品は必ず国会図書館に数部送付する。
 実はこれで十分必要な規制もでき、同時に個人の自由侵害も阻止できる。お役所仕事的に規制しても、地下に潜(もぐ)り、より危険なだけである。

 児童から猥褻(わいせつ)画像を一定規制すること自体は否定していない。しかし臭(くさ)い物(もの)には蓋(ふた)はよくない。正面から性教育として学校で取り上げ、児童を含めて、堂々と思い切った本音(ほんね)でディスカッションすることが不可欠である。未成年の性の問題への唯一の回答は、臭い物には蓋(ふた)とは逆で、正面から授業としてカリキュラムを組むしかない。

 しかも、そこでの議論はスウェーデン型で正面から、而(しか)も哲学論のみではなく、科学的・医学的面からもすべきである。今の日本の性教育は、幼少の頃はコウノトリで教え、それ以降は聞くこと自体が不良少年・少女、非行児のレッテルが現実であり、一切(いっさい)当(あ)たらず障(さわ)らずが本音でしかない。
 勿論(もちろん)、私などは中学・高校で性教育等は習ったこともなかった。子供から性関連情報を阻止することはできないし、それは間違いである。想像が膨(ふく)らむのみか、グラデーション問題もある。ギリシャやローマ時代の彫刻で全裸(ぜんら)の男性の局部(きょくぶ)はどうなるか。あるいはルノワールの絵はどうなるか。美術の時間にモザイクでもかけるか、と。

 絵と写真は同一である。デジタルになり、ますます境はなくなっていく。抽象的な写真は絵以上に実際と異なるし、絵でも模写型は写真以上にリアルである。だから、そうした物全部をシャットアウトはできない。その上、シャットアウトしていて、結婚に相応(ふさわ)しい年代の頃に、自然に、天からどうしたら良いか分かると思うのは動物と一緒でしかない。常識的には狂っている。
 性科学という分野の学科や学部もどこの大学にもないことも問題である。子供の発達過程に併(あわ)せて、正面からきっちりと学校の授業の中で、最低でも月に一時間以上、ディスカッションとゲストを招いて話し合うべきである。それも本音(ほんね)で。

 性の問題はこれらを踏まえて全面解禁すべきである。但(ただ)し場所は限定することは時には必要である。公共の場所、電車などの中では週刊誌であろうとも裸の写真を見ることを禁ずる等々と。ましてや一般家庭向けテレビ番組に裸の男女などが登場するのは大問題である。逆にプライベートの空間では、他人への危害に結びつかない限り、如何(いか)なる写真を見ようとも本人の自由である。
 また、映画などでヌードが必要な場合には、規制は先に述べた両親、弁護士、必要時のみ第三者委員会、国会図書館送付という形で行い、後は自由とすべきである。そして学校などで性の問題は正面から科学的に論ずる、である。


 第四に、児童ポルノを取(と)り締(し)まる原因となった、肝心(かんじん)の奴隷・強制労働などは野放しになっていることに見られるように、本質問題を無視する風潮への批判である。

 今の政治家などは、「仏作って魂(たましい)入れず」でしかない。児童の裸の写真売買となれば、何でも反対せねばならぬ、と、最初から結論ありきでしかない。お経(きょう)の如(ごと)くである。何の吟味(ぎんみ)もなしで。
 
 同様に教育、雇用、福祉とくれば全部賛成。そして福祉予算と言いながら、旧社会保険庁が使用していたように職員用マッサージ器まで福祉予算であった。雇用問題も同様である。雇用能力開発機構がレジャーランドをつくったが、全部雇用保険と税金からであった。大赤字となり売却(ばいきゃく)している最中に、今度は二〇〇三年頃に「私のしごと館」を五百八十三億円かけてつくり、二〇〇八年からもう売却しようとしている。
 それらは全部雇用関係の予算である。教育も同様である。懇親会という形で税をつぎ込み、行ってみるとカラオケパーティが本質だったときもある。それらの予算では全部教育費として計上されている。それを教育と名がつけば吾(われ)先に賛成とくる。本気で教育なんて考えていない。ただ賛成しておかないと選挙のときに票が減るという感じでしかない。

 物事は、フランシスベーコンが言ったように、イドラに捕らわれているかどうかを吟味(ぎんみ)し、具体的に正面から全て検討して決めていくべきである。それらぬきで杓子定規(しゃくしじょうぎ)に処理するため、男女差別禁止というとほぼ全員が賛成するが、職場、政治の場などで男女差別はきっちりと残している。
 お役所や学校が障害者差別禁止と啓発活動をしているが、その肝心(かんじん)の役場の職員や学校教師に、どうして障害者の人が少ないのか、となる。本来、視覚障害者及び聴覚障害者、肢体(したい)障害者などの教師が数人以上いない学校などは学校ではない。役場やNHKも同様である。だから行政が、歩行者専用道路の点字ブロックの違法駐車を見ても不感症になる。私がそれらを阻止しようと写真を撮り、市役所や警察署長に手紙を出すと、私が不審者扱いされる羽目となる。

 これと同じことが児童ポルノや買春問題である。本質を忘却(ぼうきゃく)して禁止という語句のみを掲げたため、これらは地下に潜(もぐ)り反社会的勢力の資金源となり、同時に買春以外の分野では、強制・監禁労働などは研修生の一部に見られる如(ごと)く各地に野放(のばな)しが実状である。本質は後者をなくすことにあったはずである。
 重要なことは、性も性以外も含めて、全ての奴隷労働を禁じることにある。そして、児童ポルノ法制定等を免罪符(めんざいふ)型で利用し、本質部分の犯罪(賃金不払労働等)は放置する結果となっている。逆に、奴隷労働ではない場合には、先に述べたように、規制は場所程度に留(とど)め、学校等で正面から議論をすべきである……。

 

 

 

●解説と参考資料

 
 同上文書は、『日本のフィクサーME・下巻』第5章第10節から抜粋した。今日、追記したいことは山ほどあるが、長くなるため結論だけを記し、後日、上記作品とは別に問題提起をする。なお、この原稿の箇所をめぐって、某政治家と確執ができたようであるが、それらの情報公開は『同上書・パート2』か『同上書・パート3』で記すことにする。 

 
【資料】
 ①「アメリカ合衆国法典1466条Aは、「文学的・芸術的・政治的・科学的な価値が一切ないもの」だけが児童ポルノに該当するとしている。日本では、このような除外規定はない。」ウィキペディア『児童ポルノ』より引用。

 

②「図書館での取り扱い]

「過去の規制が緩やかだったため、各地の国立・公立の図書館には、児童ポルノと見なされうる図書が多数収蔵されている現状がある。

 2004年の児童買春・児童ポルノ処罰法の改正後、法務省は国立国会図書館に対して、児童ポルノとされうる蔵書の閲覧が法で禁止した「提供」に該当する可能性を指摘した。図書館は「知る自由」の保障を第一に考えるべきとされ、国立国会図書館についても、国立国会図書館法第8章において「一般公衆及び公立その他の図書館に対する奉仕」を規定しているため、蔵書の閲覧制限は想定していない状況であったが、この指摘を受けて、2005年7月から閲覧制限を開始した。2006年4月1日からは内規を制定して、少女ヌード写真集など118点、雑誌2タイトルについて、完全に閲覧禁止とした。

 他の公立図書館については、現在において、正式な閲覧制限等は行なっていない。」
 ウィキペディア『児童ポルノ』の項目より引用。

 

③以下は、ウィキペディア『児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律』より引用。


《児童ポルノの定義の問題
 現行法の児童ポルノの定義の中に「衣服の全部または一部を着けない児童の姿態で性欲を興奮させるものの姿態」という一文があるが、定義が曖昧かつ客観性がないため「何が児童ポルノなのか、はっきりしない」といった懸念がある。

 事実2009年6月26日に行われた法務委員会の審議の中で、宮沢りえのヘアヌード写真集「Santa Fe」が児童ポルノになるのか取り上げられたが、その中で自由民主党の議員葉梨康弘は「児童ポルノかもわからないなというような意識のあるものについてはやはり廃棄をしていただくということが当たり前」と発言している。

 これに対し朝日出版社は「Santa Fe」が児童ポルノに当たることに疑問を示している。また保坂展人議員はブログの中で、 「ジャニーズや『ウォーターボーイズ』、我が子の写真まで児童ポルノにするのか?」と疑問を示し、「被写体となる被害児童の人権救済」という本来の立法目的を超えあいまいな定義が一人歩きしていると指摘している》