雑話-2・学校

エッセイ『学校』{一九九七年記述。拙著『旅に心を求めて・不条理編(下)』(安らぎ文庫・Kindle版)などに所収}

 ……今日(こんにち)の学校について概観すると、優秀と言われる生徒のほとんど全てが、意味を知らずただ単に語句を暗記しているにすぎず、ほとんど全く意味のないことをしているにすぎない。しかも、それらですら生徒の予習・復習などの独学に事実上頼っているのであり、その上、生徒・学生はそれらの大半をかなり早い時期に忘却してしまうという状況にある。

 今日、〝俗に言う問題児〟の大半は、社会に出れば即社会適応行動をとるにもかかわらず、授業中を例にとれば他の場では許されないことが学校では許されると考え、時間潰(つぶ)しのみか他人の権利をも平然と奪っている。中には、教師は不公平だと言いながら、逆に教師の顔や威圧感でその生徒の方こそ態度を使い分けるという、ある意味では差別者なのである。

 そして、「落伍者(らくごしや)を出すな」と言っている教師こそが、後に述べるように、私から言わせれば現在全く勉強をしない、少なくとも、授業に関しては甚(はなは)だしい落ちこぼれなのである。俗に言う盗人(ぬすっと)猛々(たけだけ)しいと言わざるを得ない。よって、今日、学校は少なくとも授業に関しては、教師・生徒双方にとって貴重な時間潰しをしている、完全な無用の長物以上のひどい存在である。

 とりわけ、〝学ぶ〟という面においては、高校や大学などは授業をゼロか現在の五パーセントくらいにし、生徒・学生に自主学習の場を提供し、その指導・援助をした方が遥かに有効である。教師も現在の授業の五パーセントくらいならば、ややまともな授業する確率も高くなる。クラブ活動などをして学校は勉強だけではないという人にとっては、この方が時間の無駄が減るということで、より一層当てはまるであろう。さらに、中学校などでは、授業に関しては真面目な・熱心な高校生や大学生あるいは主婦をアルバイトで大量に雇い、一人当たり年六~十本くらいの授業に限定し、リレー授業をしてもらった方が今の授業よりは遙(はる)かに価値があるものとなる。今日の学校では、教師は授業をする上では無用の長物であり、授業では時間潰(つぶ)しを仕事としている存在にすぎないのであるから。

 「学校がなければ社会にとって問題を持つ人間が続出するのではないか」という一見もっともらしい声がある。だが、高校以上に限定すれば、かつての〝問題児〟の一人である私から言わせてもらえば、それは完全な神話にすぎない。現在の俗に言う〝手を焼かす生徒〟の多くは、自分が適応できる場を見つければ、即座に一般の社会人以上になる。現在の有名な歌手・俳優・スポーツマン・その他の職業でも、掃いて捨てるほどそうした事例は見受けられる。よって、彼らにとってすら学校は何の役割もない。ましてや、大学では学問に打ち込まないならば、その学生のその他の才能を長期に亘(わた)り殺し続けているだけで、本人にとっても多大な無駄時間である。

 逆に、学校時代に優秀と言われた生徒・学生の一定部分が、社会に出て地位を得た頃には人を人とも思わぬ横柄な反社会的な行動を平然とする。時には、問題児対策をしている学校長や教育委員会のお偉方ですらそうした人もいる。そればかりか、脱税・賄賂(わいろ)などの犯罪ですら平気で行う人間がどのくらいいるか。だから、学校――特に高等教育――で生徒を矯正するなどとは、長期に多方面の統計を取れば分かるように、事実に反しているのではなかろうか。

 このエッセイ・「学校」で、以上のことをこれから実証していく。その目的は学校解体論ではなく、逆に現在の授業の問題性を書く中で、授業の重要性を訴えることにある私の天命は、学校の中心は〝授業〟であり(特に高校以上)、本当の授業とは何かを社会に問うことにある。そして、この世の学校の授業の大半が本当の授業となったとき、世界はその姿を一新するであろう、というのが私の確信である。かつて問題児の世界とエリートの世界の両方を、落ちこぼれとインテリの世界の両方を見た、あるいはそこにいた私の経歴から尚(なお)更(さら)この問題を書くことにした。付け加えて、塾を含めれば小学生・中学生・高校生・予備校生・大学生と全て教え、しかも小学校から予備校までは小学3年生を除き全学年を教えてきた。その中には、個別指導で手取り足取りして教えた、簡単な分数の足し算もできない中学3年生も、東大に行った者や(一緒に酒を飲みに行った)京大などに進学した予備校生もいた。さらに、……授業を知らずに箸(はし)にも棒にもかからない教え方をしたときから、授業を求め続ける今日に至る〝授業屋〟としての私の歩みもあり、それらの経験をふまえて今回の文を書いた。……{拙著『教材エッセイ・学校』より一部抜粋}

 

 

●解説。

 同上文書・「学校」は、1996年に拙著大学校用教材・『求め続けて』に収録した文書である。1997年に修正して、『求め続けて』は完成した。両者ともに2007年に微修正をした・そして、今回、『旅に心を求めて―不条理編・下』(安らぎ文庫・Kindle版)に、「学校」を完全収録した。上記はその文書の一部である。本体である『求め続けて』(日本語のみか英語も一部使用)は長文であるため、後日、三回(第Ⅰ部・人間、第Ⅱ部権利のための闘争、第Ⅲ部こころ)に分けて出版予定である。

 

 「学校」の内容全体は、同上書を本文込みで九十九円という安価な値段で(2015年6月17日に)販売する予定のため、購入して読んでいただきたい。そこで解説は省く。

 

 ただし、偏差値批判{「偏差値なるもののでたらめさと国民マインドコントロールの実態」等々}、今日の大学批判{「松下村塾・適塾VS東大・京大」等}、学校批判などは、安らぎ文庫HP・安らぎ文庫Blog(浜田隆政公式HPが私的なものに対して、安らぎ文庫HPなどは、将来法人化を目指している)にて行う予定でいる。

 

 電子書籍作成に慣れた段階で、出版はKindleのみではなく、私の原稿を受け入れてくれる全出版社へと拡大して行く方針である。理由は、様々なデジタル媒体(デバイス)を所有している人の誰でも、私の著作に興味を持っている人に読でもらいたいからである。また、これらの出版社が、分野ごとに得手不得手があると思われるため尚更多くの出版社から出版予定でいる。(例えば、文書は得意だが写真対応は遅れている出版社、写真対応に優れている出版社、カラー化にいち早く対応した出版社、図式や罫線の処理にすぐれいてる出版社、音声朗読機能を入れた出版社、営業体制が確立している出版社、海外でも販売網を持っている出版社……多様な出版社があると思うからである。)ただし、電子書籍に慣れるまでは、全出版社からというのは無理である。